見出し画像

社長はただの肩書き、役割りのひとつにすぎない

社会に出るとあらゆる肩書きに遭遇する。名刺交換をした際、その名刺の持ち主が大企業の方だったり、カタカナの良くわけのわからない肩書きだったりと、その人自身の能力や人格などはその時点では計り知ることはできない。

代表取締役、つまり社長という肩書きもその一つではないだろうか。

父から会社を引き継ぎ、名刺に代表取締役と記載するようになってから、おかしなバイアス(偏見)で見られる機会が増えたと感じた。

その肩書きだけで過大評価されたような感覚というのか、まだ何もしていない状態でも一目置かれるというのか、その時点では私など赤字で債務超過の倒産しかけの名ばかり社長というのに、代表取締役と書かれた名刺を差し出すだけで相手の対応が少し変わる瞬間が何度かあった。

絶賛借金丸焦げ中の身としては、一般のイメージとの乖離に内心、委縮してコンプレックスのひとつになるほど当時はそのバイアスに悩まされたものである。

それとは別に、肩書きが大好物な人も世の中には大勢いる。実績が伴った人ならともかく、役回り的にスライドしただけの形であってもそのような人にとっては肩書きの効力は絶大らしい。

数年前、私と同じく家業を継いで世代交代というスライドをしただけの3代目の経営者が、ホテルで盛大に就任披露パーティーを催すというので面食らったおぼえがある。これまた私と同じ従業員数人の零細企業の経営者が、である。この話を聞いたときにはその会社の経営状態が芳しくないとのことを聞いていたのもあって、エネルギーの矛先が間違っている、3代目になってより厳しい経営状態に陥るのでは、と勝手に危惧してしまった。

肩書きとは組織の中で与えられた役割りの一つにすぎない。大事なのはその与えられた役割りをまわりの努力や尽力に対して責任を果たせているかにあると思う。

組織の中で、ましてや小さな会社の中では偉いも偉くないもないのである。責任を果たす意識があれば自ずと驕り高ぶった態度などなんの成果も生み出さないのは明白で、そんな何の価値もないプライドを行使するヒマがあったら自分に何ができるか、ということを一つでも絞り出すことに注力するといい。まわりの人間は肩書きに影響を受けるのではなく、その人自身が歯車の一つとしての機能(責任)を果たしているかを最終的に判断している。

そして本質的に肩書きを理解している人は決してまわりの人間を軽視しない。同じ歯車としての敬意を持ち、組織を前進させていくことだけに意識を向けている。

以前、ある大企業で活躍し、いくつもの肩書きを渡り歩いた方がこうおっしゃっていた。『肩書きににはパワーがあるが、それ自体は着ぐるみにすぎない』まったくその通りだと思うが、その方が話す説得力は経験者だからこそ行き着いたひとつの本質にほかならない。

肩書きに惑わされてはならない。見るべきはその人自身の人間性にあるのでないだろうか。

肩書きを得ることを目標にするのではなく、個の特質や能力を磨き、まわりに相乗効果を与えられる人としての成長を目指すようになろう。