アート思考で読み解く俵屋宗達 [後編]
さて、長くなりそうなので途中で終わりにした前回からの続きです。
「おおきな絵」の模索と停滞
桃山時代に隆盛を極めた、その空間を支配する者の権威をできる限り高めるための大画面障壁画のことを、ここでは便宜的に「おおきな絵」と定義しました。
その「おおきな絵」のルールを作り上げたのが狩野永徳でした。
天下人たちのギラギラとした上昇志向が憑依したかのような、力強い筆致によって威風堂々とした絵を描くことで、永徳はまさに画壇の天下をとったと言えます。
しかし、1590年に永徳が没したのと時を同じくして、時代の空気は変わっていきます。
1598年には豊臣秀吉が病没し、1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が将軍となって、江戸に幕府を開きます。江戸時代の幕開けです。
そして1615年の大坂夏の陣で家康が豊臣家を滅ぼして天下統一を成し遂げたことで、戦乱の世は完全に終わりを告げます。
それからはご存じの通り、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」をもじって「パックス・トクガワーナ」と言われるような、太平の世が250年以上続くことになります。
永徳以後の狩野派一門が制作した障壁画を見ると、さすがに敏感に時代の空気の変化を感じ取り、「おおきな絵」の方向転換を模索していることがわかります。
永徳の息子光信が描いた園城寺勧学院の襖絵(↓)では、木々が細くなり、何層にも重なった金雲が画面にリズムを与えています。
永徳の高弟山楽(↓)は、華やかな装飾性を加味する方向に画風を展開しました。
これらの絵からは豪放さ一辺倒ではなく、繊細さ、優美さ、穏やかさを加えようとする意志が感じられます。
ただし、どれも永徳様式のアレンジの域を出ていません。あくまで永徳が作り上げた「おおきな絵」のルールに則って、その中でどれだけ新しいことができるか、という思考法でした。これでは遅かれ早かれ行き詰まります。
宗達が描いた、前例のない「おおきな絵」たち
宗達が登場したのは、そんな「おおきな絵」の模索と停滞の時期だったと言えます。
宗達の大画面障壁画のデビュー作と思われるのが、京都・養源院の襖絵と杉戸絵です。
一度火災で焼失した養源院は、1621年に二代将軍徳川秀忠の正室・崇源院(お江)によって再建されました。その際に室内装飾の絵師に指名されたのは、狩野派の絵師山楽(永徳の弟子)と宗達でした。ここで宗達は京狩野トップの山楽と共演しています。
そして宗達が描いたのがこちら。
《松図襖》はかろうじて永徳の巨木表現を意識している様子があるのですが、松も岩も区別無く、ぼってりとした太い線でうねうねと描き、厳格さとはほど遠いですね。また、左端に描かれるのは岩でしょうか、切り株でしょうか(↓)。やや謎の物体が登場しています。
また杉戸には霊獣を描いているのですが、この唐獅子たちのおどけたポーズを見てください。
白象の気持ちいい丸みにもご注目。
杉戸一面に一体ずつ画面いっぱいに遠慮無く描く大胆さは、稚拙さと紙一重です。
養源院の同じ空間に狩野山楽が描いた、荘厳な牡丹図や勇猛な唐獅子の絵とは異次元のゆるさです。
完成した宗達の絵を見て、山楽は間違いなく思ったはずです。「え!? お前それでいいの?」と。
宗達はその後、大画面屛風を次々と制作しています。
《蔦の細道図屛風》は、伝宗達(「伝」とは、確実に宗達筆という証拠はないけど、一応宗達としておこう、という意味)とされていますが、宗達と親しかった公家烏丸光廣の賛があり、宗達もしくはその工房で描かれたことは間違いないでしょう(相国寺HPでは「伝」をつけてないですね)。
そもそもこんな絵が描けるのは宗達ぐらいです。一双屛風(右隻と左隻の対になった屛風)の左右を入れ替えても絵がつながる仕掛け。奥行きをなくした金と緑の平面の組み合わせで、見方によっては道にもなり、また山の壁面にもなる、前後関係も入れ替わる不思議空間です。
《松島図屛風》。前編の最初に挙げた謎のモヤモヤモチーフがある絵ですね。
文様的な細かい波の線がびっしり引かれた海の部分と、金のフラットな面、という密と疎のコントラストを意識したデザイン性の高い画面です。
また右隻では霞として描かれているかのような金地は、そのまま左隻につながり、そこでは松がはえている砂浜に変化しています。この倒錯構造は《蔦の細道図屛風》と共通しますね。
《風神雷神図屛風》は宗達の代表作にして、これ以降、尾形光琳、酒井抱一と時代を超えて描き継がれる記念碑的作品です。一双の屛風で風神と雷神を対峙させる絵なんてそれまで存在しませんでした(わかっている限りでは、ですが)。
駆け足で見てきましたが、宗達の大画面作品の特徴をまとめると、モチーフの大胆なクローズアップ、奥行きを感じさせないフラットな色面、やわらかなフォルム、前例のない突飛な画面構成といったところでしょうか。
どれもそれまでの「おおきな絵」のルールにはなかったものばかりです。このような既存のフレームからの逸脱、アイデアの跳躍を成し遂げたところが宗達のすごさです。
さて、「前例がない絵を描いた、すごいすごい!」というところから、もう一歩踏み込んで、それを可能にした宗達のアート思考をひもといてみましょう。
「ちいさな絵」を極めた宗達
実は宗達は、もともと狩野派のようなお抱え絵師(権力者専属の絵師)ではありませんでした。
俵屋宗達の「俵屋」とは姓ではなく、宗達が主宰していた絵屋の屋号です。俵屋は京の都で扇や色紙や短冊、たまに屛風などの注文を受けて制作する絵画工房でした。つまり宗達は町絵師と呼ばれる画家だったのです。