哲学の歴史
文責:井上こん
哲学とは何か。それは概して存在論であるという人がいる。それは言い換えれば、世界とは何か、と問う学問であると言えるだろう。世界とは何か、という問いは、つまり、世界は何から出来ているのか、という問いである。これを古代ギリシアの哲学者はアルケーと呼んだ。或る人は世界が火から出来ていると言い、或る人は世界が水から出来ていると言った。或る人は世界が原子から出来ていると言い、或る人は世界が無限定なものから出来ていると言った。この世界の根源を問う営為は、今日まで続いている。哲学とは存在を問う学問である。それを一先ず認めて、今日まで続く、この世界の根源を問う営為を、世界の元型を問う営為である、ということが出来る。
元型という語は、この文字がそう連想させるように、或るものの型となるものである。例えば、金属をそこに流せば、やがて金属は固まり、形を象る鋳型のようなものである。形而上という言葉と形而下という言葉が表すように、現象の世界、すなわち形而下の世界は、全て何らかの形を成している。ならば、形而上の世界には形というものがないのか、と問えば、無論、そんなことはない。昨今で言えば、構造主義というのは形而上的な形を探究していたのである。いや、構造主義だけではない。認識論という立場ですら、認識の形式を探究していたのである。分析哲学というのも、語の形式を分析しているのである。言い換えれば、構造主義の代表格であるレヴィ・ストロースは、神話や野生の思考という、物語や思考の元型を探究していたのであるし、認識論というのは、世界の認識をすることの元型を探究していたのである。分析哲学にしても、或る語の使用の仕方、その元型を探究しているのである。精神分析であっても、フロイトの精神分析は、精神の元型を性に求めている。
上に挙げた、如何なる思想哲学においても、総じて、世界を探究しているのには変わりがないし、その在り方を問うからこそ、皆、その元型を探究している。
人によっては、哲学史は着実に進んでいると考えるが、人によっては、哲学史は進歩していないとも考える。私見では、哲学の歴史とは、重なりつつ外れて行っている。一方よりみれば、それは哲学の内容が解像度を上げることなのかもしれないが、他方よりみれば、根源を離れていっているのである。
『哲学の歴史』と題してはいるが、今日、何冊もある資料をいたずらに増やすつもりはない。そもそも、私にそんな知識はない。ただ、哲学の歴史における主題的なものとして、元型というものを示すことが出来れば良い。
さて、この元型というものが、すでに盛んに使われている哲学の領野がある。それはすなわち神秘主義哲学である。これを神智学と呼ぶ人もいる。日本の哲学者では、直近で言えば、井筒俊彦が世界的に知られている。
井筒俊彦はその著作の中で、カバラ、スーフィズム、道教、空海、禅宗、華厳宗、等々の思想を概説していく。そしてその概観を通し、諸神秘主義思想に通じる形式を示す。井筒の思想を解釈すれば、神秘主義思想とは東洋思想である。
ちなみに、スーフィズムの英語の名著は、アンリ・コルバンの『イブン・アラビーのスーフィズムにおける創造的想像力』である。この著作は、未だ邦訳がないので、日本では馴染みがないかもしれないが、私は或る二人の仲間と、訳を共同し、理解に努めた。しかし、私の英語の能力はかなり未熟なもので、自信を持ってその訳を公表することは出来ない。
しかし、概要は理解した自信があるので、いずれ、オンライン上に概論出来れば良いのではないかと思う。この著作にも元型という言葉が出てくる。
さて、元型と神秘主義との関係とは何なのか。出来るだけシンプルに言えば、神が秘するもの、それが元型である。先ほど述べた、井筒俊彦による神秘主義の共通形式、あれもあれで、いわば神秘主義をメタ的に捉えた、神秘主義の元型であると言えよう。神秘主義の形式とは何なのか。それは「絶対者が自身を分節し、諸元型を為し、その諸元型を通し、諸事物が現れている」という形式である。
神秘主義思想の歴史は、神話や宗教すら、その射程に入るので、実は哲学の歴史よりも古い。神秘主義思想が、言い換えれば、神智学が凡そ学問だと言えないという人は多くいるだろう。いわゆるスピリチュアルなことも大いに含まれる。厳密に同一だとは言えないのだが、これもお互いに重なりながら、少し外れた部分を持つ概念である。
しかし、私はスピリチュアルなことも含め、神秘主義思想に可能性を感じている。というより、これは真理への確信であり、本書では神秘主義思想を踏まえつつ、哲学の諸問題に応答したいのである。無論、これにより、哲学が終わるわけではない。むしろ、これは哲学の再出発であり、ここからもまた、永遠に世界とは何かを考え続ける必要がある。
始めに戻ろう。そもそも哲学とは、世界の元型を問う学問であった。世界は水から出来ている。いやいや、火から出来ている。いやいや、世界は原子から、いやいや、世界は時間から、いやいや、世界は我から、いやいや、世界は他者から……。
そもそも、世界は火から出来ている、ということの意味は何か。当然、現代の自然科学が対象とする事物としての火ではない。ヘラクレイトスにとって、火とはこの世界の象徴なのである。象徴というものは、事物に喩えられるものの、あくまで喩えなのであり、事物の理解だけでは足りず、抽象的に理解することが必要になる。
世界は原子から出来ている、ということを考えても、デモクリトスが現代科学で言う原子というものと全く同様に、物質を物理的に解析し、考えているわけではない。事の発端は神話的に在るのである。神話というのも、想像されたものであって、ゼウスやクロノスが事物として存在しているわけではない。レヴィ・ストロースが神話に意義を持たせることが出来たのは、神話というものの構造を抽出し、抽象的に考えたからこそである。物事から元型を剔抉するというのは、まさにこのような営為である。元型の探究というのは、詰めるというよりも、抜く作業なのである。これは議論を固めていくというよりは、むしろ柔らかくするということである。
ところで、現代の哲学は現代の科学と分かち難い関係を持っている。私は前回と前々回の著作、『心の研究』と『魂の研究』で、度々このことに触れてきた。意志の問題にしても、リベットの実験は見過ごすことが出来ない。心脳問題にしても、脳科学の知見は無視出来ない。他我問題にしても、他者を理解するということにしても、意識というものがあるから成立する。意識というのは、脳の発達と共に発達したのであり、これもまた脳の問題と切り離せない。意識の根源が脳とは別にあるにしても、人間の持つ意識と、動物の持つ意識とは別様である。その違いは脳にあるのは明らかである。そして意識の問題は認識の問題へと繋がる。意識と観念は切り離せないし、だとすれば、唯物論を考えるにも、意識や観念を批判的に検討しなければならない。
これらの問題は、自然科学の発展、言い換えれば、西洋文明の発展と共に先鋭化されていった。しかし、クオリアの問題に代表されるように、現今の自然科学の知見では、これらの問いに真正面から答えることは不可能である。哲学の起源、ソクラテスの考えには魂への配慮があった。しかし、今日、魂というのは何かと言えば、私たちは単にエモーショナルな表現に使うのみで、魂の正体などは一切明かさずにいる。いや、明かせずにいるのだ。
私は自然科学が不要だと言っているのではない。不要か必要かで言えば必要だろう。しかし、他方で自然科学はオカルト的なものを排除する運動にも繋がった。しかし、オカルトとは何か。本来、オカルトとはラテン語で「隠されたもの」という意味を示すに過ぎない。オカルトとは言い換えれば、潜在的なものである。自然科学とは物事を分析し、明らかにしていく営為である。暗がりにあるもの、混沌としたもの、はっきりしないもの、これらは畏怖の対象にもなる。恐れることを恐れ、物事を徹底的に明るみに出す。そういう心理も、人間が自然科学を推し進めることに起因しただろう。はっきりしないと気が済まない、という心理もある。はっきりさせるのが倫理的である、という心理もあるだろう。それは裁判が原理的にそうなっている。法律が力を発揮する国では、正義を声高に叫び、裁くことがまるで正義であるかのような、錯覚を覚えている人すらいる。こんなに割り切れない世界であるのに。自然科学の発展と共に、分析哲学も台頭してきた。ただ、分析のみを推し進める人もいる。何事にも光を当て、見えるようにし、具体化し、議論を詰め、統制する。学者も企業も、こぞってこのような運動をする。しかし、教育も企業も、元を辿れば、極めて資本主義的である。無論、学問も商売も、元々、東洋にある文化ではある。しかし、現存する教育と社会、それを支える諸々の企業は、戦争に負けてから、まるで軍事力以外のところでも、精神性においてすらも、負けを認めるかのように、西洋の真似事をし続けて、成長し続けた結果、生まれたものである。他方、残酷ではあるが、これらは歴史上、必然であると言わざるを得ない。真理を明らかにしようとして、生まれた学問、哲学、そこから分化発展した諸学問、これらの発展は、物事の解析、分析を推し進めるのだから、相対的に明らかにすることが容易い、事物の発展は免れない。道具は発展し続け、結果的に武力も、簡単に一国を滅ぼせるほどになった。また結果的に、先に物的に発展したところが、物的に勝利し、それがまるで文明においても勝利したかのように振る舞う日が来た。ただ発展したのは、事物への理解、それのみである。肝心の心や魂、倫理、哲学の諸問題に対しては、却って、謎が深まる形になってしまったのだ。
しかし、現代における格差社会の構造とは何か。限られた少数者のみが富を得る社会である。しかし、繰り返し私たちが意識しなければならないのは、彼らが少数者である、ということである。法律というのも、学問というのも、経済というのも、医療というのも、ロゴスを中心に据えなければならない。ロゴスとは始めは非常に多義的な言葉であった。しかし、分節化が進んだ現代において、ロゴスにおいて強調されるべき意味は、語と論理であろう。語は分析哲学の対象であり、したがって、語は同一律が適用されるべきである。したがって、そこには論理が働いている。さて、私たちの世界において、ロゴスが有効に働く物事とは何か。事物である。机は机であるし、コップはコップである。これらを自然科学的な観点から見るなら、つまり、事物として見るなら、これらに同一律が働かなければならない。注意しなければならないのは、自然科学と言っても、ここではマクロな系に限る。なぜなら、ミクロな系においては、机と言っても物質が入れ替わっているのだから。
しかし、ロゴスをプロフェッショナルに扱えるのは、世界の中では少数である。それが格差社会を作り出している。では多数派とは何か。多数派とは、自分たちでそう言語化出来ていないものの―というのも、言語化が得意なものは、すなわちロゴスを操るものだから―、レンマの中に生きている。レンマとは何か。中沢新一さんという方が詳しく論じているので、詳細は中沢さんに頼れば良いのだと思う。端的に言えば、縁起の世界である。縁起の世界とは何か。関係性を軸にした世界である。これを突き詰めて考えたのが、井筒が『コスモスとアンチコスモス』の中で紹介している、華厳の思想になる。
華厳の思想では、融通無礙ということが考えられている。三種類の無礙に分かれ、理理無礙、理事無礙、事事無礙である。簡単に言えば、無礙というのは障礙(境界)がないことである。事というのは、何度も繰り返してきた事物のことである。理というのは、空という仏教の概念で説明される。つまりは、純粋な形而上の世界のことである。形而上の世界というのは、当然ではあるが、事物のようにはならない。そもそも何かと何かがぶつかって、反発し合い、お互いの侵入を許さないという性質は、マクロな系の事物に適用されるべきである。机と椅子がぶつかっても、融通無礙であるはずがない。そんな話が形而下の世界に適用されれば、私たちは地球上にはいられなくなるだろう。融通無礙という事柄は、一先ずは形而上の世界に適用されるべきなのである。空と空は無礙であるしかない。そういう意味で理と理が無礙、すなわち理理無礙という。
しかし、色即是空、空即是色という言葉の通り、この融通無礙な世界と事物の世界は重ね合わせられる。井筒も、繰り返しこのことを強調する。この重ね合わせの原理を理論的にしたものが、理理無礙、理事無礙、事事無礙なのである。ここは詳論することは控えたい。井筒の文章が何より分かりやすいので、そちらを参照した方が良いと思う。
さて、仏教の説く、縁起の世界というのも、融通無礙な世界というのも、素朴な世界観では理解し辛いのだが、形而上の世界のことだと言えば、多少は突破口が開けるだろう。では、具体的にどんなものが融通無礙なのか。無茶苦茶分かりやすく言えば、感情である。感情というのも、形而上的なものである。誰でも、感情が事物のように存在しているとは思わないだろう。そしてまた、分かりやすく言えば、感情の中でも愛憎が説明しやすいだろう。憎みながら愛していて、愛していながら憎んでいる。それだけではなく、愛しているという感情が働く故に、憎んでしまうし、憎んでいるが故に、愛してしまうという事態が俗に在る。つまり、この時、矛盾する感情はお互いに働き合い、関係し合う、縁起的な在り方をしている。それだけではなく、憎しみがあったところから、突如として愛が生まれる。逆も然り。これはマクロな系の事物の世界では有り得ない。机の在るところから、突如としてコップが生まれることはない。
時に、デリダの作った脱構築という概念があるが、井筒はデリダに興味を示していて、カバラ的だと考えていたようだ。脱構築という概念も、善悪、自己・他者、時間・空間、などの二項対立の解体を目論んだものなので、当然、形而下の世界には適用出来ず、形而上の世界に適用されるべきである。ヘーゲルの弁証法も、ただロゴス的であることから外れていて、少しレンマ的になっている。テトラレンマまでを説明出来るかどうかは、私には分からないが、ディレンマであることは明らかだろう。
ただ、こうした融通無礙であることや、脱構築が可能であることは、突き詰めれば、では世界の根本的なところというのは、何も確かなところがない、ただ動的なだけの、無法地帯なのか、という問題にもなってくる。神秘主義思想も、何でも有りだと、そのように批判する人もいる。
そこで鍵となってくるのが、元型という言葉なのである。とりあえず、次のようなことが言える。いくら形而上的な次元であっても、いくら融通無礙であっても、他の多様なものと働き合っていても、元型は崩されない。例えば、魔法というものがそれである。魔法というのは、何でも有りに思えても、そこには破られない法がある。人間社会における法というのは、破られるのが常であるが、魔の領域の法は、魔を以てしても破られない。どういうことなのか。
例えば、火は世界を象徴するということ、これを私はヘラクレイトスの思想に特に縛られずに、あくまで一つの象徴として考えてみようと思う。重要なのは、実はここでロゴスが必要になるということだ。火はあくまで火である。しかし、今日考えられているこの同一律は、火を事物としての火として捉える同一律において考えられている。しかし、今、必要とされている同一律というのは、象徴としての同一律である。もし、事物としての同一性を考えるなら、それを西洋的な同一律と考えることが出来るだろう。もし、象徴としての同一性を考えるなら、それを東洋的な同一律と考えることが出来るだろう。そして、それはAとAが同一であるというより、A(抽象)とa(具象)が同一なのである。これを神秘主義思想では、Aとaが照応関係にある、と言う。それは、時空の中で同じ座標にあるわけではないが、それでも何故か重なるものである。『魂の研究』で主題的に考えられた、重層的な世界観の根拠はここにある。そしてまた、色即是空、という時の即の意味は、これに比せられるべきである。即というのは、ロゴスにおいては、今まで考えられてきた同一律で捉えられるべきである。しかし、空という純粋な形而上性と、色という形而下のものが、現今の同一律で考えられるはずもない。ただ、空と色は重ね合わせて捉えられる。これがどのように可能であるかを、今後見ていかなければならない。
なるほど、火は火である、という言表はトートロジーである、という見方も出来よう。しかし、今見てきたように、火(抽象的火)は火(具体的火)であるという括弧が暗に入っていたらどうだろうか。
ここで象徴というものを、ある程度、明晰に考えることが出来る。象徴というものは、具象的なものと抽象的なものの関係である。繰り返しになってしまうが、この関係を照応関係と呼ぶ。そして、火(抽象的火)というものは、火(具体的火)から導き出すものである。火というものを抽象的に考えるなら、その様相の一つには揺らめきがあるが、それを抽出して考えてみよう。その揺らめきを抽象的に考えるなら、決して一つの状態に留まらない、固定された状態ではない在り方をしている、とも考えられる。そして、エネルギーを燃やす火は、いずれエネルギーを失くし、消えていくという様相もある。そして、また大きなエネルギーが一か所に集中すれば、そこに熱が生まれ、火が生まれることもあるかもしれない。或いは、火は煽られれば、煽られるほど燃え広がる。全てを呑み込み、その領域を拡大させていく。
この火の構造は、ヘラクレイトスの世界観である、万物流転と戦いというコンセプトを説明する。揺らめき、固定されず、生まれては消える、という万物流転の世界観。そして、対立するものが相克し、大きくなっていく、という戦いを基盤にした世界観である。抽象的な世界においては、対立するものというのは、性質が真逆のものであるのだが、事物の世界においては、全ては作用・反作用の法則が働くのであり、力が対立する関係になっている。そこには矛盾する力が働いているのである。火はその矛盾する力をも、乗り越える力を持つ。
これが火は火である、ということを、単なる事物に働く同一律として考えるのではなく、象徴的に考えるということである。具体的な火を想像し、それを物語ることで、その構造が浮き彫りになっていく。そして、その抽象化した構造を、今度は別の何かに当てはめる。ここで象徴というものが成立するのである。これが東洋的な火は火であるの捉え方である。これは現今の同一律とは違い、豊かに語る可能性を持っている。単なる同一律なら、ウィトゲンシュタインの言うように意味のないものかもしれない。しかし、この同一律なら、私たちには物語を語る可能性が残されている。余談ではあるが、これが私の物語論である。
さて、物を語ることで事物の構造を浮き彫りにする時、ここから何か連想することはないか。つまり、ここでは事物の型が浮き彫りになったのであり、この型を元型と呼ぶのである。ユングは元型をエイドスとも呼んでいる。いやしかし、あなたは始めの方で、元型から世界は出来ていると言ったではないか、と批判的な人は言うかもしれない。これではまるで、具象が抽象を規定しているではないか、と批判的になれるだろう。この問題に関して、スーフィズムの研究者、アンリ・コルバンは主張する。神名(元型)と実存は働き合って存在している、と。つまり、元型と実存は互いに互いを存在させているのである。ここには循環論法のようなものも感じ取られるが、実のところ、どちらか一方が他方を導出するという関係は、世界の真相ではない。そのように操作出来るのは、後から私たちが加える操作に過ぎない。色即是空というのは、共時的に成立しているのであり、同様に、抽象と具象は共時的に成立しているのである。私たちは具体的なものを見る場合でも、潜在的に抽象的なものを感じ取っている。他方、抽象的なものを考える時でも、具体的なものに置き換えて考える。
例えば、永井均さんが言う〈私〉という抽象的なものを、具体的な私の議論を抜きにして、考えられるだろうか。具体的な私というものを世界から一切失くした時に、〈 〉の中は私である、という判断をどうやってするのか。後から失くしたわけではない。元から、具体的な私という存在がいない時、つまり、世界に元から個々人の私が存在しない場合、〈 〉の中をどうやって私だと示せるのか。そもそも「私」という文字は記号であり、内包を持っているから成立するものである。「私」を使わずに無内包のみを示すなら、〈 〉と抹消記号だけにする方が良い。この〈私〉というのも、畢竟、「私」と照応関係がなければ成立しないのである。そして私と〈私〉の関係は、現今の同一律では、確かに説明出来るものではない。新たな同一律が必要なのであり、つまり、それは色即是空のような、形而上的なものと形而下のものとの同一律なのである。こうも言えるだろう。〈私〉は私の元型である。つまり、〈私〉というのは、私というものを抽象的に突き詰めて考えた末に出てくるものである。抽象化というのは、具体的なものの構造的な部分だけを、抽出して考えることである。私というものの構造だけを抽象化すれば、そこには具体的な私がいなくなるのは必然的であり、結局、誰でもない〈私〉が出てくる。それで、この誰でもない〈私〉というのは、そもそも「私」という概念と矛盾するのである。しかし、永井氏が自身の著作の中で付言しているように、大我や小我と言った考え方や、無我と言った仏教の考え方は、むしろ、永井氏の〈私〉という概念と整合性のあるものである。古くからある着眼点ではあるのだが、現代の哲学の中ではほとんど無視されていると言って良いだろう。デカルトの考えた「我」の意義も、これらの文脈では大いにある。ただ、考え方がロゴスに拠りすぎていて、我と言ったら我だろう、が前提になっているので、我と我が違う存在である可能性を想定出来ていないのである。大我と小我は違う存在であるが、先に述べたような即の関係で存在している。西田幾多郎の矛盾的自己同一的な在り方とは、このことを言う。同じことだが、矛盾的であるが、自己同一的に存在しているのである。西田の場合、ここに絶対無という概念も入ってくるのだが、ここでは詳論を控えようと思う。
我と我が違う可能性というのは、ロゴスによる同一律を基にして考えているから、という点もあるのだが、単純に、宗教的な観点が現代に欠落し過ぎているから、ということもある。大我というのは、神的主体のことであり、これを想定する観点がそもそも現代にはない。それだから、実存という言葉一つ取ってみても、実存主義というのは、些か具体的人間の存在に走り過ぎていて、実存という言葉がかなり狭隘になってしまっている。主体というものを、人間的な存在に限定してしまうのは、致命的な誤謬の元になる。そもそも、人間的な存在と言ってもちっぽけなことこの上ないので、そんな存在が自由を謳えるかと言えば、かなり無理がある。それが個々人の主体となれば、なおさらで、構造主義の批判も尤もなのである。しかし、大我という個々人を超えた、超潜在的な我、言い換えれば、超潜在的な主体が世界には在る、と考えれば、話は変わってくる。したがって、自由の議論も変わってくる。しかし、この大我(形而上的主体)と小我(形而下的主体)が単に別々の存在であれば、畢竟、個々人の主体は神に操られているも同然である。例えば、神の存在における、必然的な予定の世界があるとする。しかし、ここで、神の存在が私たちとかけ離れているという前提があるなら、この前提で必然的な予定の中、いくら自由を考えても、非常に考え難い事態になる。しかし、この両者の統一を考えるのが、神秘主義思想では基本的なものとなっている。とりあえずは、これが突破口になる。しかし、現代ではそもそも神とは何か、という問題や、そんなもの存在するのか、という問題に、先ず当たらなければならないだろう。
結論から言えば、神というものを、絶対無という概念で説明することが出来る。絶対無というのは何かと言えば、簡単に言えば、無内包ということである。つまり、何も内容を持たないものである。何も内容を持たないから、揺らぐことがなく、絶対的なのである。何も内容を持たないから、変わることがなく、永遠なのである。何も内容を持たないと言っても、ならそれって存在しないのと同様ではないか、と考えてしまいやすい。それは形而下の世界のことである。何もないことを存在しないという、それは形而下の世界に適用される。しかし、形而上の世界というのは、一般的に感情や愛、善悪などの観念的なものも、形而下の世界にはないのであるが、形而上の世界にはある。事物のように存在してはいないが、感情などは確かに存在する。しかし、感情にしても、善悪にしても、しっかり内容があるように思える。これらは形而下の世界では無いのだが、形而上の世界では内容を持ち存在している。また、先の議論を思い出して欲しい。そもそも、形而上の世界というものは、形を持たないという共通形式がある。しかし、何らかの内容を持つものは、事物とは違う何らかの構造を持つ、という意味で形はある。しかし、形而上という意味は形がないという意味であり、形而上という意味を突き詰めて考えると、その構造すら持たない真の意味での形がないということを考えることが出来る。それが絶対無である。先の議論では、具象と抽象という関係性を考えていた。しかし、翻ってみれば、我々が抽象的と考えるものにも、何らかの具体的な内容を考えることが出来る。今度は、その抽象的と考えるもの、それ自体を抽象的に考えるのだ。抽象的なものは形而上的である。それ故、哲学以外の分野でも、抽象的に考えていけば、それがその分野の哲学となる。スポーツ哲学、法哲学、等々。なら、その形而上的なもの、全てをさらに抽象的に考えよう。構造から構造を抜き出し、やがて構造から構造はなくなっていく。その一般形式が絶対無である。いや、しかし、ここで形式という言葉を使っているではないか!すぐに怒られそうな言表である。しかし、実はこのことに対して、モーセの十戒ではすでに断りを入れられているのである。聖書の他のセンテンスにも、この問題に対して注意喚起が為されている。
モーセの十戒において、このことに断りを入れているのは、偶像崇拝の禁止である。これを単に神の像を作ってはならないと、ロゴスや事物によって解釈するのでは甘い。銅像を作って崇拝してはならないとか、そういう単純過ぎてもはや意味が分からない話ではない。偶像崇拝の禁止とは、究極を突き詰めて考えれば、神の対象化の禁止である。そもそも、絶対無というものが、神の絶対性や永遠性を説明するのは、その内容のなさ故であった。しかし、絶対無というのも、その内容のなさを表した、一つの形式に拠っている。したがって、その時点で内包を持ってしまっている。しかし、真に内包を持たないものが神なら、私たちはそれを如何して表せるだろうか。一先ず、意識することは、もはや断られる。意識することは意識内容を持つ。言葉も断られる。言葉は全て内包を持つ。したがって、厳密に言えば、絶対無という言葉ですら、神の正体を表現することは出来ない。神という言葉も、神には似つかわしくない。神という言葉は神ではない。矛盾しているが、レンマ的に考えて欲しい。このような理由で「神の名をみだりに唱えてはならない」という聖句があるのである。つまり、神を真に信仰する者は、そもそも神が何らかの対象でないことを知っているのである。カトリックでは完全に無形のものを神とすることを、大学の時にカトリックの先生から教えてもらった。その時に、私が考えていた神の概念に整合的であったので、カトリックの神に対する理解は正しいと思えた。そして、このことが本書の解題をすることになる。
ウィトゲンシュタインが示した、語り得ないもの、それは神秘である。しかし、神秘主義思想を紐解けば、神秘とはそう単純なものではないが分かる。その鍵を握るのが、神が秘するもの、すなわち元型であり、それを物語ることが、私たちには必要になる。ウィトゲンシュタインの言っていることを、もう少し突き詰めれば、語り得ないもの、それは神である、ということになる。しかし、神秘については、むしろ想像し、物語ることで、示していかなければならない。哲学の物語は終わらない。
さて、ここでの主題は哲学史である。しかし、哲学史を粒さに見ていくことはここではしない。私が主張したいのは、神が秘するものとしての哲学史である。哲学の諸問題の中には時間がある。時間の究極の形態が永遠であり、それは神という絶対無を分析することで、割と簡単に出てくる。したがって、神が分節したものとして、時間の元型を考えることが出来るのである。形而下の世界の時間は、アインシュタインが示したように相対的であると考えて良いだろう。そもそも、現象の世界とは、相対的に出来ているのだから。しかし、それだからと言って、永遠という、恒常不変の時間が否定されるわけではない。なぜなら、そもそも、適用されるべき領域が違うのだから。しかしまた、永遠がなければ、相対的な時間は、どうとでも捉えられるものになってしまう。相対的な時間と絶対的な時間を、重ね合わせて考えなければならない。
今を生きるものは永遠を生きる、と考えたのはウィトゲンシュタインであった。その前に、ウィトゲンシュタインはこう言っていたはずだ。今というものを無時間性と解すれば、と。今というものは、いつでもどこでも今である。今は永遠に今である。今というと、一般的に、刹那的な時間の観念を持たれている。これはこれで、今というものの様相なのだが、今という様相には永遠という様相もあるのである。形而下の世界を極大にしてみても、極小にしてみても、形而下を捨て去れば、全て無限である。つまり無限定であり、極めて融通無礙になる。この時、もはや形而下の大小といった概念は意味をなくす。感情は宇宙より大きいだろうか。或いは素粒子より微かだろうか。こう問うことがナンセンスだろうか。真相は多様な様相を呈しているのではないだろうか。
世界とは、ある時は火であり、ある時は水であり、ある時は無限の様相を呈する。私見では、世界の根源を神秘主義的な視座から考える時、哲学史の全ての思想は有意義になる。過去においても、未来の哲学史も、神秘主義的な視座からは全て有意義なものになるのである。これはかつて、私が夢想していたことだった。この素晴らしい作品群を無駄にしたくはないという動機だった。
実際、世界は多様である。この多様な世界を現す根源的な存在も、その性質は多様でなくてはならないだろう。この議論において、しばしば取沙汰されるのは、西田幾多郎の「場所の論理」であろう。この時、西田のいう論理とは、通俗的な意味での論理ではない。しかし、論理というからには、論理の元型を持っているはずである。西田の論理は、論理学でいう論理よりも、遥かに広い射程を持つ。西田のいう論理は、東洋的論理であり、そこにはレンマが前提とされている。西田の場所の論理の究極の次元は、周知の通り、絶対無のことである。そして、この絶対無の場所は、無限の内包を持つという。
論理というものを考える時に、AからAを導出するのが、現今の論理学の論理であると言えるだろう。しかし、この時、Aの中には様々な要素が内包されていると言える。リンゴはリンゴであるが、リンゴの中には、糖分も水分もビタミンも入っている。その集合を果肉と呼び、それを覆うものを皮と呼ぶ。そして、それら全体をリンゴと呼ぶのだろう。世界もこのようにして在る。
つまり、現今の論理学は諸事物や諸個体といったものを対象とするのだが、西田の論理は世界が対象になっているのである。現今の論理と言ってみたものの、西田の論理と現今の論理は単純に矛盾するものではない。両者を統合するのが良いと思う。
世界には世界内存在が内包されている。そして、実存する存在者は各々、自身の内包を持つ。そして、いくら内包を持とうが、世界は世界であるし、リンゴはリンゴである。こうして見れば、世界の論理と個体の論理はまるで矛盾しない。では、一体何が違うのか。シンプルに、論理的に遡及するか、追及するかの違いである。前者を述語の論理と呼び、後者を主語の論理と呼ぶ。前者では、対象から、その構造のみを抽象的に捉えていく。そして、その抽象の果てが無の場所である。後者では、対象のその対象性を追求していく。後者を追求していけば、具体性や事物に当たることは明白だろう。そもそも、対象の意味がそのようになっているのだから。
この議論を多重の見を行使してみれば、何かが見えてくるはずだ。つまり、これは東洋と西洋の対比である。これは、東洋の武術を習っている人なら、分かることである。東洋の武術、その身体操作の根源には脱力がある。力を抜くという身体操作が、東洋の武術では基調になっている。身体と心理の関係は、色々なところで述べているのだが、体癖論を参照されたい。
抜くことの極限には、無の場所があるのだが、東洋の武術というのは、いずれも精神性を切り捨てていない。突き詰めると、そこには宗教性がある。なぜ『ラストサムライ』という映画があれほどヒットしたのかと言えば、そこにあるメンタリティを全員、直感していたからである。そして、これほど私が西洋と東洋を断じても、この事実は、それさえも融通無碍であり、故に脱構築可能であることを示している。
西洋と呼んでいるものは、西洋に生きる実存者のことではない。そうではなく、時代の進展と共に、一人歩きした観念なのである。というのも、直感する能力も、唯物論を逃れる精神性も、全ての実存者が持ち合わせているからである。ただ、皆、西洋的なものと共に発展してきた、多様な意味に吞み込まれ、東洋的なものと、そこに内包される意味を捨象してしまったのである。
例えば、神秘主義者の一人に数えられるベルクソンは、記憶を主題的に考えた。彼の観点には、いつも潜在的なもの前提にあった。記憶も潜在的なものも、具体的なものを抜いていかないと、出てこない。本来、形而上学というものは、具体的なものを抜いていく学問なのだが、現代においては、自然科学的な知見への信頼感がある故に、具体的なものが乱流している。
しかし、神秘主義思想の卓越した研究者であるアンリ・コルバンは、実存を抜きにして元型は考えられないし、逆もまた然りだと考える。自然科学の提示した万物の知見は、万物の一つの様相であると言わざるを得ない。一つの事実である。ニーチェはこう言った。「事実などない、解釈あるのみ」しかし、私はこう言おう。事実は存在する。ただし、それは一つの解釈である。自然科学の提示した知見は、事実である。しかし、それは現れているものの、一つの様相に過ぎない。しかし、一つの様相ではあるし、対象を追及した結果なのだから、無視も出来ない。私たちは自然科学的な知見と照応するように、抽象的で多様な意味を捉えて行かなくてはならない。
線香花火をしている。滴るそれは水のようである。お風呂を沸かす。その場所には煙がある。私たちは火に水を見、水に火を見る。この事態を可能にするのが、多様な根源であり、神秘主義思想なのである。
道教の思想は、井筒がその著作で挙げている。無は一であり、一は二であり、二は多である。無は一である。一は一であるが故に、全てである。全ては一つ一つであるが故に、一である。一は一つ一つであるが故に、二である。一つ一つは二つであるが故に、多様である。これと同様のことを、道教では説いている。ここでは数秘術という術が使われている。
この論理は無元論であり、一元論であり、二元論であり、多元論である。哲学史の全ての根本的形式は、数秘術を使うと収めることが出来る。神秘主義思想の視座から、哲学史を治めることを、僅かばかりではあるが、示せたかと思う。以降、哲学の諸問題に対して、神智学の道を進みつつ、呼応していこう。