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【連載企画】(前期)エルンスト・トゥーゲントハット-ハイデガー最後の弟子の一人にして大陸哲学と分析哲学の架橋者-1/2
文責:屈折誰何
はじめに
タイトルの魅惑的な響きに対して、エルンスト・トゥーゲントハット‘Ernst Tugendhat’(1930-2023)その人の名前は彼の師であるハイデガーや同じ門弟のガダマーと比べて、日本語圏のみならず世界全体でも限定的な受容と言わざるを得ない。しかしそれは彼の独特な思索それ自体が無意味(無価値)であることを意味するわけでは当然ない。それにまた彼のとりわけ前期における研究は同時代の戦後ドイツ哲学に一定の影響力を誇っていたこともまた事実だ。
彼は1930年、旧チェコスロバキアに裕福なユダヤ人家庭で生まれたが、時代の切迫から、幼少期にスイス、そしてベネズエラと渡った。アメリカのスタンフォード大学で学位を取得後、弱冠二十歳にしてドイツはフライブルク大学大学院でその研究キャリアをスタートした。1951年からはナチス関与問題が一段落し復職・退官教授となったハイデガーに薫陶を受けている。しかし、彼の特異な点としてそうしたいわゆる大陸哲学の系譜を出自に持ちながら分析哲学へコミットメントしたことが挙げられる。
今回はサンティアゴ・ザバラ著『分析哲学における解釈学的性質 エルンスト・トゥーゲントハット研究』(2008, コロンビア大学出版, 未邦訳)に倣い、彼が倫理や神秘主義に関する思索に傾く以前の1980年代までに行った「大陸」と「分析」の橋渡しについて、かなり大雑把な説明になってしまうが、その概観を紹介しようと思う。
ザバラが示すようにトゥーゲントハットはエッセイ“Philosophische Aufsaetze”において自身の前期の探究を
「(1)分析哲学を通じたフッサールの乗り越え
(2)ハイデガーの真理概念の訂正
(3)伝統的存在論の分析的批判
(4)分析哲学の導入」
という4つに分けている。本記事は連載を予定しており、今回は(1)と(2)に相当する部分を紹介したい。
解釈学的現象学と言語論的転回
彼の主要な仕事の一つとして、ハイデガーの真理概念(aletheia)に対する問題提起が挙げられる。これは主著“Der Wahrheitsbegriff bei Husserl und Heidegger ”(『フッサールとハイデガーにおける真理概念』)で示された。当書でのフッサールの著作への多大な分析の詳細について立ち入ることはここでは控えよう。ただ、トゥーゲントハットによるハイデガーの真理概念への疑義は、ハイデガーが師フッサールから離れて存在の解釈学的地平へと至ったことへの肯定的評価とセットになっている。そのため彼のフッサール及び現象学への評価は、当該の功績を説明するに際して無視できない。
フッサール現象学からの離陸
正直、彼のフッサール(現象学)に対する評価は限定的だ。経験にすでに与えられている非明示的な知識を反省を通じて明証性の相で記述せしめんとするその目的には積極的に与する。しかし他方で事象の把握を志向の充実化として捉える向きには冷ややかである。
フッサールは『論理学研究』における論理構造の把握に際して、例えば「この藪は赤い」という命題は、名詞化され客体の基準となる「この藪の赤さ」と「Aはαである(αを持つ)」という範疇的作用が、知覚を通じ段階的に結び付いて範疇的直観(「SはPだ」という形式の把握)となって成立するとした。これをトゥーゲントハットは知覚に基づく顕在的な述定と解釈し、そうした対象の述定に注力するアリストテレス以来の西洋形而上学の延長として彼を位置付けている。
ところで、フッサールは先の直接的な知覚に類比する形で理念的抽象の遂行を説明しようと(つまり今、目の前で藪の赤さを視認しないにもかかわらず「この藪は赤い」という命題の認識が可能であることを説明しようと)した。ところが「SはPだ」という命題の志向の充実化は、彼の言うところの「真理」に関わるもので、福島(2008)の指摘を参照すると『論理学研究』における志向の充実化は知覚による「直観充実によって「充たすこと(Ausfuellung)」と捉えられる一方で、信念の「確証」ないしは「裏付け」として捉えられる」。
『論理学研究』は激烈な反心理主義を意図して書かれた以上、知覚と対象の客観性が主題的に扱われているため、ここでは志向の充実化は前項「充たすこと」に注力され、後項「確証」が不十分になってしまった。
そこでフッサールは超越論的還元という彼独自の方途へと舵を切るのだが、トゥーゲントハットはそもそもとして命題に対応する述定としての対象の定立に懐疑的である。彼は、命題における主述関係は主部に関する何らかの(志向作用が付帯した)表現でもあるいは述部に関する知覚でもなく、むしろ単なる形式的な特徴付けとして理解するべきだとしている。「この藪は赤い」という命題が示すのは特定の藪の表象でもなければ赤さの知覚でもない。そうではなく彼によると、そこではある項が別の項によって機能的に特徴付けられていることを端的に示しているにすぎない。そしてその意味内容はその言葉が開かれた地平において使用されるごとに構成される。この言語使用を超えた形で何らかの形而上学的な思索を行うことは不毛であるとする。
トゥーゲントハットは、自身がフッサールに抱いた不満について、文中の連関を個別独立的な各対象と同一視して認識を素描しようとしたところにあると見ている。もっともこの見方は一面的だ。またその後の超越論的還元やそれに係る本質直観に対しての理解、おしなべてデカルト的主体を端的に心の眼のようなものとして捉えている節が微妙にある。(これに関しては南(2023)が間接的な示唆を与えてくれる。無論、彼のそれは私たちが犯してしまうようないわゆる超越論的主観性を独断論と取り違えてしまうようなものではない。しかし自己が自己自身を対象化するのに際して、トゥーゲントハットはあくまで言語の規則による一人称不定代名詞の機能を考えようとする。)
ともあれ、差し当たり彼の批判は意識-対象の関係に向けられている。そして彼は認識の基盤を言語の使用規則に置く。言い換えると、認識とりわけ自己意識はつねに自分が与する言語への命題的態度(文章として把握=文全体を「理解」しようとすること)に関連しており、「理解」とは文が示す個別の対象ではなく、その文章の正しい適用規則を感得することであると見ている。そんな彼にとって、認識とは対象を客観的に定立することによって生じるとする主-客モデルの採用した西洋形而上学の伝統は捨て去るべきものなのだ。
ハイデガーをよりラディカルな形で
こうした西洋形而上学の伝統を壊しにかかったのがハイデガーとウィトゲンシュタインである。トゥーゲントハットは両者を関連付けた数少ない論者の一人であり、また単に分析哲学の優越の主張をするのでなしに、当の形而上学性を早い段階で指摘した点でユニークであると言える。分析哲学の形而上学的性質については次回触れるとして、今回はハイデガーに焦点を絞って解説したい。
ハイデガーが解釈学的現象学の文脈において主題とするのは、存在理解の可能性についての問い、つまり「存在一般の意味への問い」である。そしてこの問いは伝統的な存在論をもってして答えることはできない。なぜならそこでの回答の形式は「存在とは~としての対象性である」というものになってしまうからだ。言い換えると、「存在一般の意味への問い」はハイデガーによれば、われわれ一人ひとりがまさしくそうである現存在Da-seinに対して、根源的に与えられている存在理解の露呈によって、生活の中で出会う現存在以外の様々な存在者たちの存在が示されるからである。つまり順序が逆なのだ。
こうした現存在Da-seinの存在論-存在的優越によって、存在一般の性格が明らかになったとき、一切の存在が規定されるという図式はそれまでの超越論的現象学をそのまま引き継ぐ形ではない。なぜならそこでは超越論的主観性と事実としてある(対象化された具体的な)主観性とが依然として区別されているからだ。この区別すら放棄して存在について理解することをハイデガーは「解釈」と呼んだ。ここにおいてハイデガーは「解釈学的現象学」という新たな地平を切り開いたのである。
従来の超越論的現象学は、解釈を通じたもろもろの意味理解によってようやく定立するものであり、それが標榜する究極の根源性は乗り越えられた。そしてそこから命題的判断の妥当性を巡る問いへと通じる。すなわち命題の陳述に係る真理は、フッサールにおいては内的直観の真理の予備構造に根差されたものである。(先ほどのセクションで書いた『論理学研究』における志向の充実化の箇所を想起されたい)それに対して、ハイデガーは陳述の真理を〈解釈学的なものとして〉、あるいは〈アポファンティックなものとして〉示す真理にまで遡ろうとする。〈アポファンティックなものとして〉というのは解釈された意味が自らを顕現させる、あるいは「語りだす」ということである。
両者ともに、陳述の真理が別の真理のもとで成り立つことは共通しているが、フッサールの場合は陳述による対象化の先に行こうとしてなお意識-対象関係(すなわち伝統的な存在論)にある。それに対して、ハイデガーはこれを乗り越えていることが見て取れる。先ほどトゥーゲントハットは「ハイデガーが師であるフッサールから離れて存在の解釈学的地平へと至ったことへの肯定的評価」していると書いたが、その意味が理解いただけただろうか?彼の基準は一貫して反形而上学であり、よりそれにコミットしているものを評価しようとする。彼によるハイデガーの真理概念批判もこれの延長にある。ハイデガーにおける真理(aletheia)概念への批判は出されるや否や戦後のドイツ哲学内で大きな論争になった。(この論争を有意義なものと見なすかには濃淡がある。)ともかくこれがトゥーゲントハットの名を強く打ち出したことは確かである。批判の概略を荒畑(2009)は以下の4点にまとめられるとしている。少々長いが全文引用すると、
「(一)(生活世界を論じる後期フッサールとハイデガーに共通の問題として)ある真理基準がその内部においては絶対的に妥当するような地平そのものが「真理」と呼ばれてしまうと、それの規範的な支配そのものを問題とすることができなくなってしまう。
(二)「真理と開示性との等置は、歴史的な世界理解を真理への関与のひとつに数え入れながらも、世界理解を(正当化ないし根拠づけという意味での)正当性証明(Ausweisung)には関係させないということを可能にする。」
(三)「真理が解明されうるのは開示性の様態に訴えることによってであるという正しい洞察」から「根源的な開示性の相関者をもっとも根源的な真理とも呼べる」ということが帰結しうると考えられている。
(四)少なくとも言明の真理としての真理にとっては本質的であるはずの「そのとおりに(So-wie)」という規範的契機が、すなわち、何かを正しく表象したり判断したりするためには不可欠な「それ自体としてあるとおりに(wie es sellbst ist)」という制限条項が、ハイデガーの分析のうちで徐々に脱落してゆき、最終的には言明の真理はただ、その言明が何かを「暴露しつつ在る(Entdeckened-sein)」ということだけに限定され、かくして真なるものとは、それ自体としてあるとおりの存在者ではなく、単に「直接的に姿を見せているとおりの(wie es sich unmittelbar zeigt)」存在者となってしまう。」((四)の強調は原文ママ)
(四)で書かれた言明の真理とは、先ほど書いた陳述の真理と同義であり、これが〈解釈学的なものとして〉あるときの真理に際してその特徴が変質している。言い換えると、自明的に示すことがいつの間にか隠されているか隠されていないかの問題となった。この拡張によって、それは真理を示すことに限定されず、真か偽かを隠さずに示していれば良さそうなものである。しかし、ハイデガーは依然として隠されているか隠されていないかということを真理にだけ関わるものとしてしている。荒畑が分類するように(三)(四)の批判は開示性(aletheia)が陳述の真理を派生的であるとすることを担保するもので、ここがちぐはぐだと先に示した伝統的な存在論に大逆行してしまう可能性がある。ここで単なる逆行ではなく大逆行と表現したのは、フッサールにおいても陳述の真理は志向の充実化によって担われるものであり、派生的であった。そして、派生的であるのになお大元の作用が意識-対象関係(伝統的な存在論)を抜け出せていないことが問題だったのに、ハイデガーの真理概念はその陳述の真理の派生性すら明示的に表せられない可能性が出てきてしまったからだ。
加えて、ハイデガーが〈常にすでに理解されているもの〉としての直接性(すなわち自己所与性)と、差し当たり大抵の場合に自らを示すもの(すなわち所与性一般)の区別を設けなかったために、事態を複雑化させ(一)(二)で荒畑が分類しているような状態を生み出してしまっているとトゥーゲントハットは指摘する。言い換えると、この世界=歴史的な世界を生きる世界-内-存在である私たちは、現存在として真に世界に開かれてはいるが、この原初的な真理と歴史的な世界の地平が結び付いている以上、その地平で生き、解釈学的現象学によって解釈を行う=〈解釈されたものとしてある〉真理に出会うことは言ってしまえば「真理の真理の探究」(誤字ではない)であってナンセンスだとトゥーゲントハットは言いたいのだ。(関連する当惑はE.フフナーゲルでも提出されている。)
ともあれザバラが指摘するように、こうした批判はハイデガーの真理概念が不適当であって、撤回を求めているという論旨ではなく、むしろその反形而上学的姿勢をより徹底していると言ってよいだろう。
さて、いかがだっただろうか?複雑かつ馴染みのない概念、あるいは聞いたことはあるけど、よく分かっていない似たような言葉の概念が列挙されており、混乱した読者も多いだろう。これは、偏に私自身の無力に存するところであり申し訳ない。ただ、トゥーゲントハットの目標が反形而上学的に向いていたことが伝わっていたら幸いだ。タイトルにもある通り、彼を大陸哲学と分析哲学の架橋者として紹介するのが私の目標であり、彼の言語の機能に注目するあり方という形で、今回はその「分析っぽさ」を仄めかしたにすぎないが、次回はいよいよ伝統的な存在論を解体していく彼の分析を追っていきたい。
参考文献
Tugendhat, Ernst(1967)“Der Wahrheitsbegiff bei Husserl ued Heidegger ” Walter de Gruyter & Co.
Zabala, Santiago(2008)“The Hermeneutic Nature of Analytic Philosophy ” Columbia Univ Pr
E.フフナーゲル 訳 竹田純郎・斎藤慶典・日暮陽一(1991)『解釈学の展開─ハイデガー、ガダマー、ハーバーマス、ベッティ、アルバート』以文社
荒畑靖広(2009)『世界内存在の解釈学 ハイデガー 「心の哲学」と「言語哲学」』春風社
M.ハイデガー 訳 熊野純彦 (2013)『存在と時間(一)』岩波文庫
福島裕介(2008)「フッサールにおける志向の充実化について」京都大学哲学論叢刊行会『哲学論叢』35巻 pp.46-57
南孝典(2023)『フッサール現象学を理解する際の避けがたい困難さについて─初期オイゲン・フィンクの考察を手がかりにして─』國學院大學北海道短期大学部紀要40巻 pp.121-139