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漢字の広がり(金文)
山梨県市川三郷町に「大門碑林公園」があります。中国陜西省碑林博物館の監修・制作で、中国歴代の名碑15基が完全コピーされ、日本にいながらにして、中国の有名な書を目の当たりに見ることができます。
石碑は、写真も印刷技術も無かった時代の書を、現代まで残してくれる貴重な資料です。
同じように、青銅器に鋳込まれた文字である「金文」も、その当時の原史料をそのまま残してくれています。
金文や碑文(石文)を研究することを「金石学」と言います。
![青銅器](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/137112338/picture_pc_4d7d44052b1861937a78f734152a1a55.png?width=1200)
永く遺跡に眠っていた甲骨と違い、青銅器は比較的早くから知られていて、宋の時代にはすでに金石学の研究が始まっていました。甲骨文字を発見した王懿栄、劉鶚も金石学の知識があったので、甲骨に刻まれた文字に気がつくことができたのでしょう。
1.周時代に広まった金文
青銅器は、殷代後期には作られていましたが文章はほとんど鋳込まれていませんでした。あくまで文字は、神との交流である卜占に使われていたのです。青銅器の鋳型に紋様を施す技術が未熟だったことも一因かもしれません。
ところが周の時代になると地方支配のために文字が使われだします。青銅器には、臣従を誓った地方部族に対する安堵状のような内容や、王への感謝の内容などが刻まれています。文字は王と神官の占有物ではなくなり、中国全土に広がってゆきました。広大で多種多様な民族間で、話し言葉が通じなくても漢字を通じて意思疎通ができました。
![金文](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/137112686/picture_pc_6614f15e292b833d35750d81fc4fbe36.png?width=1200)
2.金文の特徴
初期の金文の字形は、ほとんど甲骨文字と変わりませんが、金文の方がふっくらと肉厚で、毛筆の雰囲気を残しています。これを肥筆(ひひつ)と言います。
筆と墨はすでにあって、それで木や皮の上に文字を書いて下書きとして、青銅の鋳型を製作します。文字の方が凹んだ形になるように鋳型を製作するのは、とても高度な技術です。周の末期、群雄割拠の春秋戦国時代になると、地方ごとにそれぞれ発展した字や、装飾を施した文字、あるいは筆記体に近いものまで現れ、地方によって異なる金文が現れました。金文で作品を書く場合は、時代や地域の違う字体が混在しないように注意が必要です。
ちなみに、青銅器は銅とスズを主体とした合金で、新品は黄金色に輝くまさに金でした。われわれが目にする青銅器は、青緑色にくすんでいますが、腐食してしまったためです。