台風が台風になるまで
台風はいつ台風になったんだろう?
ウェブサイトや新聞、テレビニュースなどに掲示される天気図を見て、この夏から秋にかけて非常に特徴的な、目玉の妖怪のようないびつな同心円の塊がドンと鎮座していると、そこに台風がいて、進路次第によっては日本にやって来るということを、昔からの季節の風物詩のようにごく当たり前のように思っていました。
でも、考えてみたら、これって昔からのものでもないし、当たり前のことでも全然ないんですよね。
そもそも台風のあの形を知るには天気図が必要で、その天気図を描くには正確な地図が不可欠で、さらに気圧の測定が行われないといけないのですから、どうひいき目に見積もっても明治以前ということはありえなさそうです。
実際、明治22(1889)年に刊行された、日本初の近代的国語辞典である『言海』には「台風」の項目自体存在しませんでした。
台風の古称ともいわれる「野分」はあったのですが、
と書かれているだけで、これでは散発的な強い風というイメージしか浮かんできません。
それではいつ頃から台風という単語が出てきて今の意味で使われるようになったのでしょうか。
検索してみますと、徳島県立文書館のサイトで詳しく解説されていました。
https://archive.bunmori.tokushima.jp/new_article/00000000401.html
ここによりますと、移動型低気圧自体は明治20年代には既に存在が認知されており、明治40年に「台風(颱風)」として命名・定義されて、大正を通じて一般にも周知されるようになり、昭和初期に認識されていった、ということになるようです。
だとしますと、昭和初期は1930年代前半にあたりますから、台風が今現在のような言葉としてお茶の間にのぼるようになってから百年にも満たないということになります。
しかし、これもメディアが現在のように張り巡らされた時代のことではありませんから、どの程度浸透していたかはなかなか想像がし辛いものがあります。
そこで、ある時期の台風をその当時の人がどのように体験し、記録したのかを調べてみました。
注目したのは枕崎台風と阿久根台風です。
枕崎台風。昭和20(1945)年9月17日に鹿児島県枕崎付近から上陸、その後日本列島を縦断して3500人以上の犠牲を出した、観測史上最悪といわれる伊勢湾台風(昭和34年、犠牲者5000人超)に次ぎ、(第一)室戸台風(昭和9年、犠牲者3000人超)と並ぶ大型の台風です。
そして阿久根台風は、その枕崎台風から一月も経たない昭和20年10月10日に、枕崎よりもやや北の鹿児島県阿久根付近から上陸、ほぼ同じコースをたどり、枕崎台風の爪痕を更にえぐるようにして日本縦断していった台風になります。
記録にも記憶にも強く残るだろう巨大災害であり、そして、この昭和20年という年は太平洋戦争終結の年にあたり、以前にも紹介しました通り、膨大な量の戦中・戦後日記が残され公刊されています。
それら日記からこの二つの台風の記述を探しました。
まずは、前のコラムでも真っ先に紹介しました山田風太郎の『戦中派不戦日記』を。
当時23歳で医学生だった風太郎は、5月24日から26日までの大空襲で当時の下宿先も母校東京医専の校舎も焼かれ、長野県飯田市に学校ごと疎開して終戦を過ぎた9月もまだ信州で過ごしていました。
また、明治3(1870)年生まれ、当時75歳の江戸文化研究家三田村鳶魚も、やはり疎開先だった山梨県西八代郡で9月18日に、
と書いています。
これと似た感想を残しているのは永井荷風です。
明治以来の文豪の一人であり、江戸情緒を愛した作家であった荷風ですが、昭和20年3月10日の東京大空襲で長年住み慣れた屋敷を焼き出され、東京東中野のアパート、岡山など住居を転々とし、この枕崎台風の頃は静岡県熱海で寝起きしていました。
その頃、東京のトタン屋根の小屋で寝起きしていた内田百閒も、
と風の強さを書いています。
東京での状況は、大正時代に無声映画の活動弁士として活躍し、トーキーの発明後は漫談家、俳優に身を転じた徳川夢声の日記にもわずかですが残されています。
日本演歌師の草分け添田唖蝉坊の長男で戦前の流行歌「パイのパイのパイ(東京節)」などの作者としても知られる添田知道も東京で終戦を迎えていて、戦中から戦後の状況を日記に残し、そこにわずかですが枕崎台風の様子を記録しています。
以上が6人の日記に記録された枕崎台風のほぼ全文です。
これらを読んでまず気になるのは、その記録の淡白さです。
家が大きく揺れたなどの記述こそありますが、どれも一過性の大風の体験という雰囲気が強く、それまでの空襲の光景と比較するのはおかしいかもしれませんが切迫した危険性は伝わってきませんし、前後でやってくる台風にそなえたり、その後の瓦礫や土砂のかたづけをしたりする描写はどこにもありません。
また同時期の、高見順、海野十三、渡辺一夫、田辺聖子の日記には大風が吹いた程度の記述さえありません。台風の通過はまったく無視されています。
なにより3000人を超える犠牲者を出した大災害にもかかわらず、その後の、例えば新聞やラジオの報道の見聞を書くなどといった広域被害を伝えようとする記載に乏しく、わずかに荷風が、
と書いているくらいでした。
ひとつの想像ですが、これはまだ当時、台風が連続的な災害であり、状況によっては日本全土に大きな被害をもたらしかねないという実感を、多くの人が持っていなかったことを示しているのではないでしょうか。
そもそも、「台風」という単語の使用さえ、既に引用した山田風太郎と徳川夢声のほかには、内田百閒が10月の阿久根台風とその直前に「一体今年は颱風が多過ぎる様である」(昭和20年10月5日)、「今日も亦一日中颱風の雨なり」「今秋の颱風の襲来幾度なるかを知らず」(昭和20年10月10日)があるのと、「鞍馬天狗」の作者で鎌倉在住の大佛次郎が、
と書いている以外見つけられませんでした。
昭和前期に単語としての「台風」が定着したという話を前提といたしますと、大正11(1922)年生まれの山田風太郎は物心ついた時からそれになじんでいたので、自然とそれが文章に出たのも無理のない話と思われます。
残る3人、徳川夢声は漫談家、俳優として戦中戦後も頻繁にラジオ局に出入りしていて、大佛次郎は大戦後期まで新聞小説を多く手掛け、更に玉音放送のあった2日後にはその所感「大詔を拝し奉りて」が掲載されるなど新聞社と密接な関係を持っており、そして内田百閒は戦中に日本郵船と日本放送協会の嘱託となっています。
つまりこの3人は3人とも、新しい言葉を発するメディアから比較的近い位置にいたのです。
激しい風雨をもたらす気象現象を台風と呼ぶことは知っていたものの、けれどもそれがもたらし得る被害の大きさを実感として持つまでには至っていなかったということではないでしょうか。
そして、唯一連続的な災害としての記録を残した荷風は、
あくまで「低気圧」と書くだけで「台風」という単語には、この時点ではあまり興味を示していなかったようです。
約80年前の終戦の年、まだ「台風」は現在のように一般的には名前と特性を一致させられていなかったと思われます。
それが急速に人口に膾炙し、「台風一過」や「台風の目」などといった慣用表現を使うまでになじんでいったのは、その後にも相次いだ被害とその対策の積み重ねの経験によってなのでしょう。
台風という、このたった漢字二文字の単語であっても、その認識に至るには大きな蓄積があったことが改めて思いやられました。