目標より仕組み、書初めはいらない。

先月は「生まれか育ちか」というテーマで読書をしていたが、それと並ぶくらい「目標か仕組みか」というのは議論に上がる。

もちろん人間の文化に従属する概念に関しては、絶対的な善悪がないようにこの問いに対する答えというのは本質的にはありはしない。だが、最近のテーマとして掲げる「習慣化」の書籍においては過程が重要視されているように感じる。

今回は目標志向のワナについて書いておきたいと思う。

まず、「短期的なモノに過ぎない」ということだ。たとえば部屋を綺麗にするという目標を立てたとする。何時間もかけて整理整頓をして、要らないものを捨ててしまった。すごくきれいになった部屋を見てあなたは満足している。だが、いずれその部屋は元通りに散らかっている。なぜこのようなことになるかというと、真に対処すべきは目に見えているモノだけではなくて「モノを片付けられない習慣」や「要らないものを買ってしまう習慣」にあるからだ。短期的な目標や結果はある種の目くらましであり、本質的に対処すべき問題点をその場の達成感で見えなくしてしまう。

また、受験勉強を思い出してみると○○大学合格!!といって頑張って入ったものの、その後は全くと言っていいほど勉強に身が入らなくなる。燃え尽き症候群と似ているこのような症状は何かに強くアイデンティティを感じている人ほど陥りやすい傾向にある。スポーツに命を捧げる覚悟でやってきたもののその道が絶たれた後はどうすればいいのかわからない、ということもありうるだろう。目標は通過点に過ぎないのに、結果志向の人はゴールと勘違いしてしまう。

次に、「勝者も敗者も目標は同じである」ということ。オリンピックで金メダルを取る、という目標を立てていたとしても、ある競技で金メダルを獲得できるのは1人しかいない。この場合、何が金メダル獲得者とその他を分けるのかと言えば目標ではなく何をしたかである。過程がその後を分けるものであり、結果は目標には左右されない。

最後に「二者択一にしてしまう、幸福感の延長に繋がる」こと。目標を立てればその成否によって結果は2分されてしまう。到達できたものには栄光がもたらされるかもしれないが、到達できなかったものは失意にまみれることになる。先のオリンピックも結果だけを見れば、金メダル以外は敗者である。2位じゃダメなんですか?にはダメと答えるほかにない。
また、目標を立ててしまうとその過程を楽しめなくなる。出来たか出来なかったか、という二者択一はそこに辿り着くまで判断がつかない。幸福感は進歩とともにあるものではなく、到達した地点にしかない。

以上の点を踏まえて、結果のために最優先でするべきことは年始の書初めなどではなく、具体的に何をするのかというプロセスの作りこみである。あれこれと想像で語る目標ではなく、今すぐに何かをやるその行動こそが結果を生み出してくれるのだ。

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