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水正果から「読みたい」に出会い直すまで

これは「読みたいから読む」と出会い直し、「書きたいから書く」を再発見するまでの記録。

水正果から旅に出る

よく行く本屋で何気なく手に取った本にこんな描写があった。

水正果(スジョングァ)をときどきつくる。生姜とシナモンスティックを水で煮出して、はちみつまたは砂糖を入れる。褐色の甘い液体ができる。これをよく冷やして飲む。飲むときにはスライスした干し柿を入れる。

水正果とはなんだろう。生姜とシナモンスティックとあるから、スパイシーな味が想像できる。甘い褐色の液体。冷やしあめのようなものだろうか。水正果を想像しつつも、本を閉じて元の場所に戻す。しばらく店内をぐるぐるするも「甘い褐色の液体」が気になりすぎて、さきほどの本を持ってレジへと向かった。

『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』(斎藤真理子/創元社)

手に取った本は『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』。韓国文学の翻訳者である斎藤真理子さんが書かれた本だった。読み始めると、すぐに斎藤さんの書く言葉に魅了され、あっという間に読み終わってしまった。「韓国語と日本語のあいだ」というタイトルにもあるように、それぞれの言葉のあいだに立ち、揺らぎながらも丁寧に韓国語を捉える様子が綴られていた。同時に朝鮮半島の歴史、ハングル(韓国語で使われる文字)の誕生、韓国における詩の役割、そして戦争について体系的に語られていた。

朝鮮半島の国々を知った時のこと、あるいは時代の影響について

恥ずかしながら本書を読み終えるまで、朝鮮半島と日本の歴史については薄ぼんやりと、あるいは断片的にしか理解できてなかった(もちろん、読み終えた今も理解が足りないという自覚はある)。斎藤さんの言葉に手を引かれながら読んだ朝鮮半島と日本の歴史。言葉にならない痛みと罪悪感。でも、今までどう向き合っていいかわからずにいた自分にとっては、大きなヒントもあった。

振り返ってみると「韓国」と「北朝鮮」、朝鮮半島の国々を認識したのは10歳から12,3歳頃だったと思う。2002年に北朝鮮拉致被害者が帰国したというニュースを通して北朝鮮を、日韓ワールドカップや『冬のソナタ』、嫌韓本で韓国を認識していったという記憶がある。

ただ韓国に関しては、嫌韓本のインパクトが強かった。本屋の目立つところに大々的に展開され、漫画のような表紙から「新しい漫画?」と思って手に取ってしまったことも覚えている。子どもながらに嫌なものを感じ、そっと元の場所に戻した記憶もある。嫌韓本が並んでいた光景は、後々の「どう向き合っていいかわからない」という感情に繋がってると思う。ヘイト本が本屋の目立つところで展開されることの影響を考えずにはいられない。

そんな時代的な影響を受けていたとはいえ、日本と朝鮮半島について知ろうとするタイミングを逃し続けて大人になってしまったのだと本書を通して気付かされる。今更かもしれない、けれども、少しずつでも知っていきたい。本書の最後にはガイドとしてさまざまな本が紹介されていた。これを手掛かりに知ることを始めてみよう。

『ギリシャ語の時間』、あるいはノーベル文学賞

話を『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』に戻してみる。ハングルについての章の中で、韓国文学の作家ハン・ガンの『ギリシャ語の時間』が紹介されていた。漠然と「いつかを読んでみたいな」と思いつつ、すぐに読むことはなかった。

数ヶ月が経った頃、「2024年のノーベル文学賞はハン・ガンに決定」というニュースが流れてきた。斎藤さんの本を読んでいたはずなのに、ハン・ガンの名前をすっかり失念していたわたしは、そのニュースを見ても「へえ」とぼんやりした感想しか出なかった。あれこれニュースを読むうちに、ハン・ガン=『ギリシャ語の時間』の著者と気付いた時には自分のうっかりさに苦笑いした。

行きつけの本屋に行く。馴染みのスタッフさんに「ハン・ガンの本を読みたい」と言うと、「ハン・ガンなら何でもいい?新作がいいとかある?」と聞かれたので、迷わず「できれば『ギリシャ語の時間』がいい」と伝えた。すると彼女は「わたし、ハン・ガンの作品の中でも特に『ギリシャ語の時間』あたりの作品が好きだから嬉しい」と言って、注文を受け付けてくれた。

『ギリシャ語の時間』(ハン・ガン 著 斎藤真理子 訳/晶文社)

しばらくして『ギリシャ語の時間』が届いた。アイスグリーンの装丁が可愛い。好きな色。初めての韓国文学。長編小説はしばらく読めてないけど、読めるだろうか。そんな不安を抱えながら本をひらく。

どこにいるのか。どこに向かっているのか。わからないまま物語が進む。しかし、そこに並ぶ言葉たちがわたしの手を離さなかった。家から出ないと決めた日曜日。読みにくいなと思って本から顔を上げると陽が傾いていた。

読み終えて呆然とする。そして不思議な切なさが訪れた。物語に対してではない、この作品を日本語で読めたことに、だ。『ギリシャ語の時間』は斎藤さんが翻訳を手掛けている。「この物語を日本語に訳してくれてありがとう」という気持ちと、「原語で読めない以上、真にこの物語に触れることができないのでは」という気持ちが入り混ざった切なさだった。そうしてぽつりと韓国語を学んでみたいという感情の種が生まれた。

『光と糸』、あるいは流れゆくハングル

12月のある日。「ハン・ガンさんによるノーベル文学賞受賞記念講演『光と糸』全文を一挙公開します」という投稿がSNSに流れてきた。

『光と糸』の翻訳を手掛けたのは、やはり斎藤真理子さんだった。「去年の1月、」という回想で始まるハン・ガン氏の言葉。30分以上もある講演の書き起こしだ。ボリュームもかなりあった。でも『ギリシャ語の時間』を読んだ時のように、時間を忘れて読み耽ってしまった。

全文だけでなくハン・ガン氏の講演動画も添えられていた。リンクを開いて再生する。黒い服。灰色のスカーフ。大きめのメガネをかけたハン・ガン氏。プレゼンターに招かれて壇上に立つ。少し低めの、静かな声で話し始める。もちろん韓国語で。字幕機能をオンにしてみる。流れていくハングル。当たり前だけど、わたしは彼女の話が理解できない。話している内容は読んだ、日本語で。でも、彼女の口から紡がれる言葉と、わたしが読んだ言葉が結びつかない。『ギリシャ語の時間』を読んだ時、あるいはそれ以上の切なさを抱きしめながら流れゆくハングルを見つめた。

外国語を母語で読めるのは素晴らしいことだ。でも、母語で読めたからこそ、原語で読めない歯痒さを痛感する。読めないと自覚すればするほど、燃え上がる恋のような感情が積もった。ハン・ガン氏の言葉に、物語に真に触れたい。原語で、韓国語で、ハングルを理解して、触れてみたい。静々と積もる雪のように、ゆらめく青い炎のように、自分の中で生まれつつある何かを感じた。

怠け者とDuolingo

わたしは、実は怠け者なんだと思った。あんなにも情熱的に「韓国語を読めるようになりたい」と思ったにも関わらず、行動に移ってないという話をパートナーにする。話しながら「このままじゃ嫌だな」という言葉がこぼれ、自分で自分に驚く。

そうだ、このままじゃ嫌だ。そう思って「韓国語 学び方」と検索してみた。スクロールして目に止まったのが「Duolingo」というアプリだった。英語学習のイメージが強かったけど、韓国語もあるんだ。ダウンロードしてみる。韓国語を選び、超初心者コースを選択する。問題。突然流れる韓国語の音。4つのハングルが選択肢として並ぶ。この音はどれでしょう。リスニング問題が続く。ゲーム性のおもしろさと、グラフィックの可愛さ。右も左もわからないまま、始めてしまったけど、これはこれでおもしろそうだ。ぽちぽち問題を解いていく。答えを間違えるとライフポイントが減る。ゼロになると回復するまで問題が解けない。と言ったそばからライフがゼロになったので中断。

今更だけど、韓国語(ハングル)は母音が21個、子音が19個あり、母音と子音の組み合わせで構成されている。という前提知識は、『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』で知った。ハングルは、15世紀に生きた世宗(セジョン)大王という王様がチームを作り、発明した文字だということ、それぞれの文字に思想が織り込まれていると知り、驚嘆した。同時に「世宗って聞いたことあるな?」と思い、記憶の箱をひっくり返した。レンタル屋でアルバイトをしていた時代。当時よく借りられてた韓国ドラマのタイトルだった。『大王世宗』なるほど、貴君だったか。伏線回収した気持ちである。

話を韓国語に戻す。母音と子音、合わせて40個ある。という知識だけでわたしはDuolingoを始めた。それはつまり、アルファベットは26文字あるのは知ってるが、その26文字にどんなものがあるか知らない。aと?bと?c?があるんだよね?くらいのテンションだった。ライフが無くなり、Duolingoを中断してはじめて、ハングルの40個の文字にどんなものがあるか、全然知らないことに気付いた。慌てて一覧表を調べる。我ながら順序が逆では?と思う。

もしかしたらわたしは努力の仕方が下手なのかも。だから、怠けちゃうし、続かないものがいっぱいある。韓国語を学んでみようと行動したことで、そういう自分の気質のようなものに気付けたのは良かった。韓国語学習がいつまで続くかわからないけど、最初の一歩は踏み出したぞという気持ちは書き留めておく。

ライフポイントが回復したのでDuolingo再開。リスニング問題として流れてくる韓国語の音がいちいち新鮮だ。耳馴染みのない音。英語とも違う音。日本語に似ている音。一音一音、新しい音を聴くたび、世界への扉がひらくようだった。

水正果から「読みたい」に出会い直すまで

水正果を作ってみた。どうしても、どうしても「褐色の甘い液体」の味を確かめたくなった。朝鮮にルーツがある友人に「水正果って作ったことある?」と聞いてみた。あわよくば作ってもらおうという目論見だ。「あるけど、そんなに作らないかな。でも簡単だよ?」と言われた。簡単だよと言われると自分で作るしかないなと思い直した。材料は近所のスーパーで揃った。見つめる鍋は煮えない。わかってても材料を入れた鍋を見つめてしまう。

生姜とシナモン、水正果。

出来上がった水正果を口にする。生姜とシナモン、砂糖の甘味で口当たりは柔らかだった。想像通りの、あるいはそれ以上に好きな味。喜びの舞を踊った。そうして時々、水正果を作るようになった。友人曰く、水正果は夏の飲み物らしい。きっと夏に飲む水正果はもっと美味しいに違いない。だって冬でもこんなに美味しいのだから。そしていつか本場の水正果を口にしてみたい。

この1〜2ヶ月、あるいはもう少し前から心に不調をきたしていた。その話について書き始めるとあと3000字くらいかかりそうなので割愛する。不調と伴走しながら、自分を見つめ直す・捉え直すという作業を繰り返している。その中で「わたしは何をしたいのか」という問いがぐるぐるしていた。何をしたいか。動詞で想像する。一番最初に頭に浮かんだのは「書く」だった。でもなんかしっくりこなくて、一旦横に置いた。そしたら空いたスペースに「読みたい」がやってきた。

ここ数年、読書といえばもっぱらエッセイか実用書ばかりだった。子どもの頃はとかく小説を、物語を浴びるように読んでいた。でも、10年前にうつ病になり、本そのものが読めなくなった。本が読めない日々をやり過ごし、うつ病との付き合い方を学ぶ中で少しずつ読めるようになってきた。エッセイ、実用書、漫画、ときどき、小説に手を伸ばしてみたけど読みきれなかった。そうして出会った『ギリシャ語の時間』。静謐という言葉が深く胸に刻まれるようなその物語に感銘を受けた。なにより読みきれたことが嬉しかった。

「読む」はいつの間にか「書く」や「発信する」という何かしらの行動と結びついていた。それはそれでよくて、でも、「読みたいから読む」というシンプルな気持ちが迷子になり過ぎていたとも思う。水正果から始まり、『ギリシャ語の時間』を経て、韓国語を読みたいと思った。この一連の旅のような、自分と向き合う時間の中で、「読みたい」というプリミティブな感情に出会い直したような気持ちでいる。

わたしは読みたい。ただ、読みたい。

それだけの感情を記録するために5000字近くの言葉を費やした。「読みたいから読む」と出会い直したように、「書きたいから書く」も再発見した。一旦横に置いた「書く」を自分に戻す。このnoteは、書きたいから書くを体現してみようと思って書いてみた。いつか韓国語が読めるようになったとき、そのきっかけに立ち返ることができるように。

読みたいから読む。書きたいから書く。飲んでみたいから作ってみる。その気持ちを、大切に。

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