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母の戦争体験(8) 最後に
富山の皆様へ
8月1日は富山市民として、忘れることのできない悲しい心の痛みの思い出の日です。
昭和20年8月1日未明、富山市はB29による大空襲に遭い、どれだけの人がこの空襲の犠牲者になられたものか、
現在85歳以上の方は、この惨事をきっと記憶として思い出されることがあると思います。また、若い方はお母さんに聞いたことがあると思ってくださる方もあるでしょうし、子供さんたちにも、昔の富山の歴史を心
母の戦争体験(7) 疎開
三日市駅を降りますと、長い、巾の広い大きな1本道があり、両側には何一つない草だけで、街に通じるだけの道だったのでしょう。
人口の少ない町らしく、小さい子供の声もなき声も聞こえない、こじんまりとした静かな街でした。
私達が8月1日に疎開してきてからも、毎日どこかの県で空襲があり、日本中が焼かれたようでした。
空からは、アメリカ機が「日本は負けました。降参しなさい」とのビラが空から撒かれました。
母の戦争体験(5) 挺身隊員
今日から女学生ニ年生の朝です。学校では全生徒が朝礼に臨み、最後に教頭が「これから重大な話がある。これから教室で担任から詳しく話があるから、それをよく聞き、メモをしておくこと、その話をしっかり聞いて行動するように」
何の話であろうか、深く考えないでいたら、教室に入ってこられた先生の真剣な顔。
「これから話すことは、とても重大な国からの命令で、この学校だけではなく、市内全体の学校が明日から中止もなり
母の戦争体験(3) 回覧板
ある日回覧板が回ってきました。
内容は、『今家で使っていない鉄瓶や薬缶、その他いらなくなった金属類を供出することになったので、どんな小さなものでもよろしいから。』
とのことであった。
次の日、市の職員がリヤカーを引いて1軒ずつ回っていましたが、私にはその姿の背には負け戦の影が見えるようでした。
また、家のガラス戸全部に幅3センチ、長さ10センチほどの長さに切った半紙を十文字または斜めにガラス戸
母の戦争体験(1) 太平洋戦争
昭和16年12月8日、朝のニュースを聞くため、何気なくラチ”オのスイッチを入れると、7時の時報の後、軍隊口調で、
「日本軍航空隊は本日未明、真珠湾を攻撃し、航空母艦を撃沈。
艦船多数を沈没。真珠湾に大打撃を加え、大勝利を挙げて帰還せり。」
突然の報道に皆言葉も出ず、唖然としました。
何の前触れもなく突然の報道に、日本国民は唖然とし、さぞ驚いたと思います。
ラチ”オはその後、軍歌を放送し続けました。