頭がいい人に憧れた
日本では7歳になる歳から小学校に通い始める。いわゆる義務教育というやつが始まる。このnoteを読んでいる人たちはもちろん義務教育を終了しているはずだと思う。この義務教育が始まった途端、日々の授業、そしてテストによって成績がつけられる。成績が良いと頭がいいと言われる。小学生の間はこれが人間関係に影響与えることは少ない。しかし、中学生になるとこれが人間関係に影響を与える。なぜなら、中学校では定期テストが行われるようになり順位までわかる。テストが行われ、高い点数を取る人、すなわち順位が高い人は他の生徒に頭がいいと思われる。しかも、あまりに頭がいいと他の学年にも名が知れる可能性もある。頭がいいと言うのはもはや一つの称号みたいなものだと思う。中学校ではこの頭がいいという称号が人間関係に影響を与えるようになる。この称号を持っている人間は真面目でなんでもできる人と勝手に思われる。これを苦痛に感じなければ問題はないがこれを苦痛に感じる人もいるだろう。また、普段ものすごいふざけているのに頭がいいとなぜか真面目で頭がいい人に比べて高い評価をされる。頭がいいという称号があるかないかで大きくその人に対する評価、印象が変わる。もちろん、性格の良さ、ルックスの良さ面白さ、運動能力の高さなど様々な称号があるがその中でも頭がいいは中学校の中ではトップクラスの称号である。寝る以外の時間を勉強に使うなどの努力をすれば誰でも獲得可能である称号であるのにも関わらずなぜトップクラスの称号なのか?それは学校という場所で1番評価されるのが頭のよさであるというものすごくシンプルな理由だ。そのため頭がいい人は良い人であると評価され、反対に頭が悪い人は良くない人であると評価される。そんな学校という場所にいる人は頭がいい人に憧れを持ち、自分も頭がいいという称号を獲得したいと思う。自分もそのうちの1人だった。自分よりテストの点数が高い人を天才だと思い憧れていた。そんな自分も努力をそこそこすればいい点数を取り、頭がいいという称号を獲得していた。しかし、努力にムラがあり点数を取ったり取れなかったりするため、称号を獲得しては手放すということを繰り返していた。だからこそ常に頭がいいという称号を獲得している人に憧れた。しかし、頭がいいという称号が偉大なのは学校の中だけである。その事実に気づくのが遅かった。勉強なんて誰でも時間をかければできる。しかも勉強は1人で行うことができる。頭がいいという称号なんて必要なかった。クラスの中心的存在、誰とでも仲良くなれる、抜群のコミュニケーション能力などの称号の方が必要だった。これらの称号は学校でこそ身につけられる能力であり、1人では身につけられない能力である。この事実に気づくのが遅かった。せめて高校のうちに気づいていればもっと違った人間になっていたかもしれない。結局、何が言いたいのかもよくわからなくなってきた。とにかく、頭がいいという称号を過大評価してしまっていたために他の称号を疎かにして後悔してるっていうことである。今回のnote書き始めてから気づけば1時間以上経っている。途中半分以上消しすなどうまく書けなかった。頭の中でフワフワと考えていることをいざ文章にして伝えようとするととても難しい。会話ならもう少し楽に考えが伝わると思うが、文章となるとやはり難しい。自分が考えてることをうまく消化できない感じが悔しい。でもだからこそ、また書こうと思えているのかもしれない。次は自分が好きな乃木坂46についてでも書こうかな。書いてて楽しそうだし、自己紹介にもなる気がする。
次回、乃木坂46好き必読です。