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自分の"天才"を生きる道②~『バカをつらぬくのだ!バカボンのパパと読む老子・実践編』(本の紹介)


ムダ!ムダ!ムダ?それってムダなの?

 ???「ム」って、こんな形なんでしたっけ?なんだか不思議な形だぞぅ・・・。
 この章では「ム」というカタカナに秘められた深い意味の話をしよう、というわけではありませんが、「ムダ」ということについて少し視点を変えて考えてみよう、という話ではあります。
 一度、「ムダ」についてゲシュタルト崩壊を起こしてほしいのです。そうすると「ムダ」と思っていたものが、ほんとは「ムダ」ではないとわかるからです。
 私はここまで、章のタイトルを含めて8回「ムダ」という文字を書き、「ム」という字にいたっては10回書いていますので、あなたにもそろそろゲシュタルト崩壊が起きているはずです・・・。

 「無駄無駄無駄ァ!」
 「・・・それって本当に無駄なんですかね?」
 という感じで、帝王にも疑問をていするくらいの志で行ってみましょう。

*こちらは以下の記事の続きです。

 三十本の輻が轂(車輪の中心)に集まる。その無の空間があって車輪の働きがある。粘土をこねて器を作る。その無の空間に器の働きがある。戸や窓の穴をあけて、部屋を造る。その無の空間に部屋の働きがある。

『バカをつらぬくのだ!バカボンのパパと読む老子・実践編』ドリアン助川 角川SSC新書 2014年 p64『道徳経』第十一章 一部分の訳

 一行目に出てくる「輻」という字は「ふく」と読みます。今でいえば自転車の車輪のスポークにあたるものです。
 ちなみに「轂」は「こく」と読みます。

 この文章で老子が何を言いたいかというと、要は「空っぽ」や「無」にはとても重要な意味があるんだよ! ということです。
 「空っぽ」や「無」というのは、普通はムダなものだと考えられています。だから多くの人は、そこに"物"や"意味"などの「有」を入れることで、空っぽを満たそうと考えます。
 でも老子は、車輪の中心は車軸をとおすためのがあってこそ機能するのだし、器が器として用をなすのは何かを入れるための何もない空間があってこそ。そして部屋というのも、大工さんがつくるのは戸や窓、壁といったものだけど、そこに住む人に対して果たす本質的な機能は、大工さんがつくっていない何もない空間の方である、と考えました。

 この老子の一節を読むと、一見ムダと思えるものが、確かに素晴らしい価値を持っているとわかると思います。

 こうして客観的な物事について考えるときには、このことはわりかし簡単に納得できると思います。
 ただ、客観的な物事ではなく、自分自身の人生や能力について考えるときには、自分の経験について「ムダ」だと判断してしまうことがとても多くなりやすいです。
 人はなぜか、自分のこととなるとそういう判断をしてしまいがちです。
 だから人生に問題が起こってしまうのです。

 人は誰もが、その人にしかできないかけがえのない経験を積んでします。オンリーワンの経験を積むことで、その人ならではの感性や能力を育てています。
 そういう個性があるから、世の中は多様で豊かになっていくのです。
 あなたが所属している会社やサークルなどのコミュニティも同じです。
 会社なら、新商品ができるのはクリエイティブなことが得意な人がいるからです。給料がもらえるのは、外に出て人とコミュニケーションを取るのが得意な人がその商品を売っているからです。
 また趣味のサークル――例えば草野球チーム――でも、強豪校で厳しい練習を積んできた人もいれば、そんなに強くない中学でのんびりやってきた、という人もいます。
 じゃあ中学までしかやっていなかった人は下手でダメなんですかというと、そういうことはまったくありません。そういう人は「高校まで続けてもう肩が痛くて投げられない」という人の代わりに、ピッチャーなどの投げることが必要なポジションについてくれることがあります。
 また、チームのメンバーみんなでその人の上達を見守る、という楽しさも生まれるので、そういうところもステキなポイントです。

 ムダかムダじゃないかを決めているのは、使っている「尺度」が狭いか広いかだけです。
 広い尺度で世界を見つめれば、いろんな人がその人ならではの能力を使って世界の豊さに貢献していることがわかります。
 にも関わらず、人は自分のことになると、「自分のダメなところ」を
見てしまう傾向があるんですね。

 でも、「自分には何にもない」と悲しい思いをしている人も、「それって本当にムダ?」という問いを、自分自身に向けてみてほしいと思います。

役に立った「ラブリーなし、エロスなし」の時間

 ここでひとつ、具体的な人物のエピソードを見ていきましょう。

 『バカをつらぬくのだ!バカボンのパパと読む老子・実践編』の著者のドリアン助川さんは、今は作詞をしたり本を書いたりされていますが、高校生の頃までは理系で、大学は農学部を志望されていたそうです。
 ですが数学に興味が持てず、ドリアンさんの目はむしろ世界情勢と女の子に注がれていたといいます。
 とても健全な男の子ですね。
 そうこうしているうちに文学や演劇に夢中になっている友達に出会い、彼に導かれる形で創作の道に入っていったのだそう。

 受験勉強をせずに演劇の台本を書いていたので、大学に入るのは人よりも少し遅れました。
 そこで大学は、少しでも机に向かっている時間を減らして演劇に向き合えるようにと、東洋哲学科に進みました。東洋哲学なら、ガンジーの非暴力主義を理解しているからイケるだろうと思っていたからです。

 ですが、東洋哲学科に入って驚いたそうです。
 ドリアンさんは漢文と古典が苦手で受験もこの二つは捨てて受けたようなものだったのですが、入ってみたら漢字漢字漢字漢字漢字という恐ろしい日々で、それが三年間毎日続いたんだとか。

 青春の選択を間違ったと思いました。東洋哲学科には女子学生がほとんどおらず、華やいだ雰囲気もありません。ラブリーなし、エロスなし、です。あるのは、じいちゃんの教授たちによるお経と漢文の連続攻撃のみです。

同著p71

東洋哲学です。ポップではありません。流行りません。勉強してもなんらかの資格がとれるわけではなく、自分がやろうとしている演劇にも活かせそうにない。なんたる無駄な日々!

同著p71

 これはきついですね。特にラブリーなしエロスなしのところなんかは、何度読んでも涙がこぼれます。

 こういうわけで、東洋哲学科に進むことはドリアンさんが自分で選んだ道ではありますが、当時のドリアンさんにとってはそこで学んだことは「ムダ」と思われていました。
 ですが、将来にはこの経験が、人を助けることに役立つようになります。
 だから人生はわかりません。

 その後のこと。大学を卒業し30代になったドリアンさんは、ラジオや新聞やネットで人生相談をする、という仕事をするようになりました。ドリアンさんのもとには、全国の中高生からの苦悩が降り注いだといいます。
 彼らの苦悩を前にして、いったい自分はどんな言葉を返すのか。そのときに、大学のときに学んだ漢文が――具体的には老子や仏陀です――が、非常に役に立ったのです。
 もしそれがなかったとしたならば、「私は人の苦悩を前にして、いとも簡単に空中分解していたことでしょう」と、ドリアンさんは言っています。

 細かく言えば、ドリアンさんが『老子』や『般若心経』、そして西欧の哲学を真剣に学ぶようになったのは人生相談を受けるようになってからだそうですが、それでも「」は大学生のときにすでに蒔かれていたのです。

 このエピソードからわかるように、ドリアンさんが東洋哲学科に入ったことに深い理由はありません。むしろ「なりゆき」と言ってもいいでしょう。
 しかし、なりゆきだろうが意図したものだろうが、それが人生です。
 そういう道を歩んだことに「その人らしさ」が表れますし、そういう道を歩んだという過去は「今のその人」をつくります。
 それで「個性」や「多様性」が生まれているんですから、過去の経験というのは決して「ムダ」なんかではありません。

 もちろん、二度と思い出したくないような、いやな過去もあると思います。
 そういうことは、無理に思い出す必要はありません。
 でももしあなたがその経験を乗り越え、その経験の意味をプラスもマイナスも含めて客観的に捉えることができるのなら、それは大きな財産になります。

 ともかく、あなたの人生はあなたにしかないオリジナルです。そこには「好きなこと」や、なりゆきでそうなった「偶然のこと」があります。それらの総体として「あなた」があります。そこには汲んでも汲んでも枯れない豊かさがあります。

 それこそがあなたの「天才」です。

 そろそろまとめに入りましょう。
 好きなことや偶然出会ったことというのは、あなたの人生においてあなたにオリジナリティを与えてくれるものです。
 だから「ムダ」なんていうものはありません。
 あなたの人生をありのままに見つめたときに、そしてそれを今のあなたに活かそうと思ったときに、あなたの天才は輝きます。

 とはいっても、好きなことや偶然出会ったことも、「素材そのまま」ではオリジナリティのあるものにはなりません。
 その素材を、あなたの人生に活かせるように磨いていく必要があるのです。
 実はその「磨き方」というのがあるんです。

 次の章では、あなたの内側にある天才の「素材」の磨き方をお伝えします。


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ひふみ国師(身、心、神)
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