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この問題は、白黒つきますか?『「子供を産まない」という選択』から考える、女性の生き方問題

自分のからだに向き合って、自分が女性であることを楽しんでいるでしょうか

『オニババ化する女たち』三砂ちづる 光文社新書 2004年 p175

 最近、妊婦さんや赤ちゃんを抱っこする女性と出会う機会が何度かありました。
 妊娠7ヶ月のある妊婦さんは、とてもおだやかな呼吸をしていて、なんとも表現しがたい奥深い眼をしていました。
 私は武道をやっていたことがありまして、稽古に行っていない現在も呼吸法などを続けており、その歴は約20年に及びます。
 だから人の「気配」というものには敏感で、待ち合わせをした場合には大抵は私の方から相手を見つけます。
 でも、その妊婦さんの呼吸はとても静かで精妙だったため、私の横に来て「おつかれさまです」と声を掛けられるまで、私はその人の「気配」に気づくことが出来ませんでした。
 これが戦いの場であったならば、私は命をとられていたかもしれません。

 また、ある妊婦さんは、顔のあたりから光の粉が飛んでいるようなキラキラ輝く幸福オーラをまとっていて、すれ違ったときに「なんじゃこりゃ!ステキすぎる!」と私は大変驚きました。
 他にも、内輪のくだけたイベントで、まだ一歳になっていない第二子をおんぶしながら司会をしていた女性は、もう本当に明るくて楽しくて、私は彼女の姿に有史以来子どもを背負いながら労働をしてきた幾多の女性の姿を重ねながら、クイズの回答を考えていました。

 このような女性の姿を見ると、やはり女性は偉大な存在なのだなと思います。
 いや、思います、というような浅い理解ではなく、むしろ「身体で実感する」といった方がよいかもしれません。私にとって妊婦さんを見てその存在を身近に感じることは、発見に満ちたとても幸せなことです。

 ただ、今の時代に子どもを産み育てるということには、高いハードルがあることも事実。
 望んでも叶わない人もいらっしゃいますし、女性の生きる上での価値観も多様化しているため、そもそも子どもをつくらないという選択もあります。

 妊娠している女性の素晴らしさを語ることからスタートしたこの文章ですが、私は「産まない」という選択も否定はしませんし、どちらの人生も応援したいと思います。
 このような選択の自由があることは、私にとってとても大切なことですし、私が関わる女性にも、その自由をもっていてほしいと思うからです。

 しかし、人生の岐路に立って何かを選択する際には、自分の中に確固たる「軸」が必要です。「軸」がなければ、自分の外側にあるものに引っ張られ、流されてしまいます。

 また、どのような選択をしたとしても、良いこともあれば悪いこともあり、最終的にその選択を「正解」にするのは自分自身です。
 そのためには「幸せになるための考え方」や「よりよく生きるためのスキル」を持っている必要があります。

 作家の衿野未矢さんが2011年に書いた『「子供を産まない」という選択』という本には、自分自身で選択をしたものの、「満たされない」と感じているであろう女性たちの声が刻印されています。

 その声というのが、どうにもこうにも「白黒つかない」のです。
 この本はもう10年前のものですが、その"白黒つかなさ"は今にも共通するものがあると思います。

 YouTubeをはじめ、わかりやすいことで再生回数を伸ばすことが求められているメディアでは、白黒ハッキリさせた物言いが好まれます。
 しかし私は、あえてnoteで発信をしていますので、ここでは白黒つかない問題を取り上げ、ゆっくりと考える時間を、みなさんとも共有したいと思います。

独身女性は「損」をしている?

 以下の発言は、亮子さん(仮名。当時46歳)のものです。
 亮子さんは、同僚の女性が育児休業で会社を休んでいた際、その人の分の仕事もこなしていました。

夫や子供がいる同僚の女性たちは、それを口実に(注:仕事を)逃れます。しわ寄せは、独身で一人暮らしの私のもとに来ました。

p21

この先も仕事を押しつけられ、彼女の子育ての手伝いみたいなことをさせられるなんて、とんでもないと思いました。

p22

 あなたは、この発言を読んでどう感じましたか?

 これらの発言が、この育児休業を取得した女性の幸せを妬む気持ちから出ているということは、一面の真実のようです。
 亮子さんは仕事が増えていることでよってプライベートが削られていったわけですから、「損」していると感じるのも無理はありません。そして、そうやって「損」していることの原因を、具体的な他人に求めたくなる気持ちもまたわからないでもありません。

 また、「子育てする女性はえらい」「子育てをするのは大変だ」という社会の風潮もありますから、それを免罪符にして仕事を逃れようとしているのではないか、と邪推したくなる気持ちも少しは理解できます。

 ただ、亮子さんだって、少なくとも入社したばかりのときなどは他人に助けてもらっていたことがあったのではないでしょうか。それを棚にあげて自分だけが苦しいのだと言うことはフェアではありません。

 子育ては、命がかかっているのですからそれは大切です。ですが、仕事もまた大切です。
 育休を取れるということは子育てをする側から見れば素晴らしいことですが、会社で踏ん張っている方からしてみれば士気の下がることでもあるのかもしれません。

 ここには職業観や仕事の仕方の問題、雇用や組織の問題もありますが、私はふたつだけ問いを立ててみたいと思います。

・なぜ、家庭や子育てを優先する人が、「仕事から逃げている」と思われるのか。
・なぜ、亮子さんのような人は、仕事を「押しつけられている」と感じるのか

 私には、この問いを突き詰めていった先に、本当の問題があるように思えます。

命の重さはどれくらい?

 次は、子どもが欲しかったけれども、お金がなくてあきらめたという、当時37歳の美鈴さん(仮名)の声。

私も、子供はトロフィーだと思います。(中略)頑張ったかいがあって、高収入や、誇らしさ、やりがいなど、いろいろなごほうびが得られるわけですが、子供もその一つだと思います。

p79

 率直に言って、私はこの発言を読んだとき、穏やかな気持ちではいられなかった。

 その理由は、美鈴さんが子供を「努力と引き換えに得られる物」として考えていることではなく、子供の比喩として「トロフィー」というものを持ち出していることです。

 確かに、子供を育てるにはお金が必要です。

 子供一人を22歳まで育てるには、約3000万円ほどのお金が必要になると言われています。
 3000万円を22年で割ると約136万円ですから、親の生活費+136万円のお金を、夫婦で稼がなければなりません。

 ですから、美鈴さんの言うように、ある程度の収入が見込める企業に勤めることが出来たほうが、子育てはしやすいです。
 もちろん、生活や娯楽にかけるお金を減らしたり、種々の補助金や奨学金を利用するなどしてかかるお金を減らしていくことはできますので、一概には言えないと思いますが、それでもお金はあるにこしたことはないですよね。

「お金は何とかなる」とアドバイスをする人もいますが、子育てをするのが初めての人にとっては、困ったときにそのアドバイスをくれた人が実際にお金を出してくれるならいいですが実際にはそうではないと思いますし、そもそも「困ったんでお金ください」とはなかなか言えません。ですから、そう簡単に不安は払しょくできません。

 そういう意味では、大企業に勤められるだけの「努力」をしたことの引き換えにしか、子供は手に入らない、と考えることにも一理あります。

 しかし私が気になるのは、子供の言い換えとして「トロフィー」という言葉を使っているということです。

 その人が使う言葉の根っこには、その人の「認識の仕方」が存在します。
 逆に言えば、ある認識の枠組みが土台にあってその人の言葉が出てきますので、その人が使う言葉にはその人の物の見方が表れていると考えることが出来ます。

 その意味で言うと、「トロフィー」という比喩には強い違和感があります。

 確かに、トロフィーは一朝一夕では手に入りません。ある物事に対して、エネルギーを長期渡って集中して使っていかなければ、トロフィーを手に入れるだけの実力は見につきません。
 それは非常にストレスのかかることなので、多くの人はそれを避けようとします。
 ですから、努力ができるということは非常に価値の高いことであり、素晴らしいことなのです。
 トロフィーというのは、その人が努力してきたことの証だということもできます。

 ですが、いくら大切なトロフィーでも、肌身離さず持ち歩いて、どうしても自分が見てられないときには他人に預けておくということはないでしょう。
 やはりトロフィーは「物」に過ぎないわけです。

 一方で、子供というのは替えのきかないものであり、その命の重さというのは地球以上、宇宙と同等かそれ以上です。

 それにも関わらず、子供の比喩としてトロフィーという言葉を使うというのは、子供はトロフィーくらいの重さなのか?と疑ってしまいたくなります。

 これは感情的な議論かもしれませんし、私の主観に過ぎないのかもしれません。
 ですが、これに共感できる方はたくさんいるはずです。

 ここで私が問うてみたいのは、

・なぜ、そのような比喩を使えるのか

ということです。

 なぜこのことを問いたいかというと、子供をトロフィーに例えてしまえるような言葉や認識が生まれる原点に、その人を幸せから遠ざけているものがあると思うからです。

 ただ、とはいえ美鈴さんがそれをわかってなかったと断言することもできませんし、そのように発言することで、貧乏人が子育てする幸せを放棄するしかない社会をあえて挑発するという意図もあったのかもしれません。
 ですからこれは本当に白黒つかない問題ではあると思います。
 ですが私は、そのことも織り込み済みで、あえて問いを立ててみたいと思うのです。

 実はこれらの問いは、すべて冒頭の引用につながってくる、というのが私の考えです。
 ですが今回は問題提起に留めるとして、問題の解決策については他の記事にて書いてみたいと思います。

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ひふみ国師(身、心、神)
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