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ロジャーとエリオットに

ぼくはplaying for changeの一連のMVを映画であると、形を変えたドキュメンタリー、ロード・ムービーだと捉えている節がありますので強引に書いています。ヘッダ画像をお借りしています。

#映画にまつわる思い出

ぼくがPlaying for changeを初めて知ったのはCMでしかなかった。第一義的な発見手法として、歌との出会い方としてちょっと情けないと思う。

だけどPlaying for changeの歌をなんらかの企業イメージ貢献ムービーに乗せて展開したわけではなく、彼女/彼らの歌のMVをまんま使ったことは褒められうるべきだと思うけど、一方ではPlaying for changeのMVそれ自体がさっき言ったように映画としての印象を残せるほどの仕上がりになっていて、最後にちょろっと大和証券、とかロゴを出しておけばまるで大和証券のために造られたMV、といいますか映像を装うこともできんじゃねえかみたいな試算があったのかも知れない。それはあまりにも穿った見方かも知れない。

CMで使われたのはグランパ・エリオットが港で唄っている部分だ。日本のなんか偉い人も出てた気がするとは以前Playing for changeを褒め称えた回にも書いた。

ここにも書いたけどぼくは歌の詩なんてマジでどうでもいい。これを聴いたのはちっちゃい頃だし、なんていったって英語だし、意味なんて分かり得るわけがない。

でもなんかPlaying for changeとは何かを変えるため、変わるためにやってるんだ的なニュアンスは伝わってくる。そこにグランパ・エリオットのすべてを包み込み許し合うような声が乗ってくるんだから、チルアウトとかとはまた違った救われ感があった。

後年Playing for changeがこの歌のムービーを公開し、ぼくは歌の全容を知るところとなった。するとメインで唄ってる人はグランパエリオットの他にロジャー・リドリーがいるとわかった。そしていずれも今はもういない。ロジャーに至っては、ぼくがこの歌の存在を知った時にはもういなかったのだ。

だけどぼくはロジャーにやたら惹かれるようになった。なぜ大和証券はロジャーの歌唱部分を使わなかったのだろうと思うぐらいには。

このMVはそれだけで映画みたいと言ったが、その理由は世界中のどこかで演奏した音源を収録した時のイメージ(多分イメージとか再現・実演・再演してるんじゃないだろうか)をつなぎ合わせて出来ているから。

もちろん実写であり、アメリカだのオーストラリアだのキューバだのイタリィだの日本だの……あらゆる場所に住んでる、名もない人々(なんだか日本だけ無名のストリート・ミュージシャンの歌唱ではなかったんだけど、それは日本のストリート文化が世界に誇れなかったりするんだろうか?)の演奏しているさまをつなぎ合わせている。まるで世界中の人々が一つの歌をうたっているように見える。ギター、ベース、金管、合唱、鍵盤、……

ロジャーはおそらくオケを流しながらギター一本で唄っている。オケを流すのは後でこのMVを造るために他の人々の録音とテンポを合わせるためでしょう。

最近ぼくはロジャーが歌うこの歌の一度しか訪れない最大コーラス部分の歌詞にやたら惹かれるようになった。それはI can't do ten people say should you doみたいな部分です。

英詩は(英詩じゃなくてもそうだけど)どのように都合よく翻訳してもそんなに怒られないところが素晴らしいと思う。ぼくはこの詩を

「10人が10人やるべきだと勧めたり命令してくることが俺にはできない」

「10人中10人が普通にできることなのに俺はそんなこともできない」

みたいに受け止めた。すると今までこの歌を聴いて出たことのない種別の涙が出た。

多分共感したんでしょう。ぼくもそうだから。誰もが普通にできることができない。やったほうが良いと言われてもできない。

単純にいい歌があって、メロディがあまりにもいいと泣くことがある。だけど今回のそれはいつものとは違った。

ぼくはロジャーとエリオットに、ぼくは人並みになれているだろうか?と聞きに行きたいんだけど、もうそれはかなわないのだった。

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中村風景
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