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サータ・アン・ダ・サンダー

これの続き

ゲームと社会の関わりを考えると今や様々な要素が絡み合っている。
少し前までゲームというと、家族みんなで遊んでいるようなシチュエーションが想像されていました。
それこそファミリーコンピュータなんかを買ってもらうために、何週間も前から「あのソフトが欲しい」と言い続けたりした子供は今やクソつまらん大人になり、ぼくらにクソ上から目線でクソくだらねえカテゴライズをするような連中になっているんじゃないか?

それが今ではスマートフォンの普及によって、一人ひとりが手のひらでゲームを楽しむ時代になったんだから、時代の流れを感じざるを得ません。

だって今の時代、ゲームを楽しむために家庭で「ねだる」なんてことはほぼ無くなったと言っても過言じゃない。
スマートフォンさえあれば、どんなゲームでもすぐに手に入れて遊ぶことができる。
あの頃の「親を説得する」というスキルは、もう今の子供たちには無用の長物だ。
もっとも携帯買ってくれよでねだるのかもしれないが……


どの好奇心が猫を殺すのか

逆にその「ゲームのあり方」の変化をどう受け止めるかって、難しい問題でもあると思うんです。
ゲームが手軽に手に入るようになって、その相対としてゲームの体験も「軽く」なったのではないか、という気がしてならない。
今の子供たちが楽しんでいるゲームは、もう、ただ楽しむために作られたものというよりも、常にどこかで「他と競っている」要素を含んでいる気がします。
それはゲームという体験がどんどん「他者との比較」や「ランキング」や「課金要素」に支配されていっているからなのか。

そしてゲームというものの「深さ」に対する認識も、次第に薄れてきているような気がします。
もともとゲームには、独特のストーリー性やキャラクター性があったんですよね。
それらはすべて、開発者たちの「情熱」と「工夫」で成り立っていました。
でも今では、そういった要素が薄れ、どんどん「気軽に遊べる」ものにシフトしていっているというか………

しかも無料で提供されることが多く、その「気軽さ」が、ゲームの深みや広がりを奪っている気がしませんか?

その影響で、例えばゲームを「アート」として楽しんでいた人たちにとっては、今のゲームには少し物足りなさを感じることが多くなっているのではないでしょうか。
ゲームの中で表現されるものが、どんどん短くシンプルになっていっているというのが実際のところだと思います。
だからSteamが賑わうのか……

そんな時代だからこそ、改めてゲームの「本質」を見つめ直す必要があると思う。
ゲームが遊びという枠を越えて、芸として扱われる時代が今後再び訪れるのかもしれません。
もしかすると今の世代が作るゲームが、今後のゲーム文化に新しい風を吹き込むのではないかと感じます。

もちろんすべてのゲームがアートとして評価されるわけではありません。
ただ「手軽さ」を求めたゲームばかりでは、どんなに進化してもそれ以上の意味を持つことはないでしょう。

それでは、ゲームのあり方とその背後にある「芸術性」について、さらに深く掘り下げてみることにしましょう。

ゲームの変遷を振り返る

ゲームは今どんどん進化していますよね。
コンシューマゲームからオンラインゲーム、そしてスマートフォンのアプリゲーまで。
これはただの進化じゃなくて、まるで歴史の中で形を変えたような感じがします。
それでも最初からあったゲームの面白さは今でも変わらないんですよね。
今や全てのゲームをやめたぼくが言うのもなんだが……

今では「オンラインゲーム」が主流になっていますが、元々は家庭用ゲーム機のソフトで楽しむ時代が長かった。
そう考えるとオンラインゲームの登場は本当に大きな変化でした。
ただのゲームの進化だけではなく、ゲームと人々の生活がどんどん繋がっていった瞬間でもありました。
例えば、インターネットの普及によって、家庭内でのゲームのプレイスタイルが大きく変わったわけです。

昔は家族で遊んでいたゲームが、今や個人の時間の中で家族を超えて広がっていく。
ネットの向こうには、知らない誰かが待っていて、彼らと一緒に遊んだり競い合ったりしている。
そんなふうにゲームのあり方がどんどん変化してきたんです。

またオンラインゲームが普及することで、プレイヤー同士がコミュニケーションを取る場としても機能するようになりました。
これもゲームが「単なる遊び」から「一つの社会的なつながり」へと進化した証拠なんですね。

一方スマートフォンの普及によって、ゲームのアクセスのしやすさも一変しました。
手軽にダウンロードして遊べるアプリゲーは、今や多くの人々の日常の一部になっている。
ゲームを楽しむハードルがものすごく低くなった結果、「ゲームの位置づけ」が日常の一部となり、またその影響力も拡大しているというわけです。

ゲームの「手軽さ」とその影響を考える

ゲームの手軽さがここまで進化してきたのは確かに素晴らしいことだと思います。
だって今では誰でもスマートフォンを持っている時代ですから、ゲームを始める敷居が一気に下がった。
これまでのようにわざわざゲーム機を買って、ソフトを入れて、遊びたいと思うゲームを探し、手に入れる手間が省けたわけです。
それがあっという間に楽しめるとなれば、これはもう、ゲームが娯楽として一大勢力を持つのも当然だと言えますよね。

でも、そんな手軽さが「ゲームの深み」を奪ってしまったことも否定できません。
たとえば、かつてゲームは物語や世界観、キャラクターとの結びつきが強いメディアでした。
それにのめり込んで、ゲームの中で成長し、敵を倒し、ストーリーを進めることで感動を得ていました。

でも今のゲームは、確かに遊びやすさは抜群なんですけど、どこかで「遊ぶ目的」や「やりこみ要素」が薄れてしまったように感じることもあります。
あれだけ時間をかけて集めたアイテムやクリアした難関が、スマホのゲームではあっという間に終わってしまう。
そうした感覚が、ゲームに対する熱量を少しずつ冷ましているのかもしれません。

それでもゲームの中に残された「芸術性」については、まだ諦めることはできません。
ゲームとは「作り手」の熱意と遊ぶ側の想像力があってこそ成立するものだからです。
その熱意が、確実に「ゲーム」というメディアに深みをもたらし、芸術的な価値を生んでる……のか?
それがスマートフォンという便利なデバイスによって変わることなく保たれていれば、ゲームは依然として文化やアートの一部として楽しめるはずです。

ただそこで重要なのは「プレイヤー自身の意識」ですね。
手軽に遊べるゲームが多くなったことに慣れてしまうと、そのゲームをただ消費するだけの存在になってしまうこともあります。
でも、もしそのゲームの背後にあるストーリーやキャラクタ、そしてその世界に対する深い理解が生まれれば、ゲームもまた一つの「芸術」として楽しむことができると思います。
ゲームの価値って、プレイヤーがどう受け止めるか次第なんですよね。

アートとしてのゲームの未来

ところで、ゲームがアートとして評価される未来は来るのでしょうか。
ぼくは来ると思っています。というのもゲームはすでにその表現手段としての幅広さを証明してきたからです。
例えば映画や歌、絵画のような伝統的なアートと同じように、ゲームもまた物語を語り、視覚的に美しい世界を提供し、歌や効果音を使って感情を揺さぶる手段を持っています。
伝統的なアートと言ったもののうち、歌と絵がゲームの中にはある。

それだけではなく、ゲームはプレイヤーの選択によって物語が大きく変わるという特徴を持っている。
プレイヤーの行動が結果に直接影響を与えるという点で、他のメディアにはない「インタラクティブな要素」が強くあります。
これがまさにアートとしての可能性を秘めた部分だと思うんです。

実際、最近のゲームでは、物語やキャラクターの描写が非常に深くなり、シナリオライティングやキャラクターデザインも映画や文学のように一つのアートとしての価値を持つようになっています。
例えば『The Last of Us』や『Red Dead Redemption 2』など、ゲーム内で繰り広げられるドラマやエモーショナルな展開は、映画や小説に匹敵するほどの感動だ。
もはやただのゲームではなく、立派な芸として評価されていますよね。

またゲームにおける歌も、非常に重要な要素です。
『ゼルダの伝説』や『ファイナルファンタジー』のように、ゲームの世界観に合わせて作り上げられた音は単なる背景音楽を超えて、感情を強く引き出す役割を果たしています。

ゲーム内で流れるメロディが、プレイヤーの心に深く響く瞬間があるわけです。
これこそがゲームがもつ芸術性の一部ですよね。

しかし、そうした素晴らしい芸術性が評価されるには、やはりゲーム業界全体が「ゲーム=芸術」という認識をしっかり持ち、作り手もプレイヤーもその価値を理解していく必要があると思います。
それが「アートとしてのゲーム」の未来を形作る鍵になるはずです。

1個前の段落でゲームの価値って、プレイヤーがどう受け止めるか次第なんですよねというクソ偉そうな事を言ったけど、今の世の中って良くも悪くもクソ薄味なゲームを出して、歌かシナリオかキャラクタに突出したもんがあると、勝手にユーザが裏読みしてくれて二次創作的にガンガン設定ができあがってく都合のいい構造をしている。

でもそれは激烈に売れたゲームじゃないとだめですかね……続きは明日考えよう。

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中村風景
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