死んでも人生が終わるだけだと気がついた
太陽に焼かれて殺されたダニの香りの芳香剤を売れ 第50話
あの暗闇は俺にとって臨死体験だったのだろうか?こんなに弱気になっているということは……
俺が死んだら、どうなるだろう。俺を一生懸命探し、モール内を走り回った浅荷が悲しんでしまうだろうか。自分が死ぬことで誰かが悲しいと思える心とはあまりにも尊大で謙虚さの欠片もないと俺は思う。
俺は、俺が死ぬことで俺が嫌っている奴らが悲しむべきだと思ったことはあったが、俺が嫌うんだから相手も俺を嫌ってい、俺の死によってそいつらを喜ばせるだけだと気がつく。嫌なことがあって死を選んでしまう俺ぐらいの年頃の奴らも、追い詰められて似たようなことを思うのだろうか?……。
追い詰められた人は「死ぬ勇気」を持つための強靭な心を手に入れてしまう。躁鬱病の人が死んでしまう理由とは、むしろ躁状態の時に「死ぬ勇気」を手に入れられるほどのポジティブさとなってしまうからだと訊いたことがある。人はそれをそんな悲しいことがあるだろうかと思うのかも知れないが、俺にしてみればせっかく鬱状態の陰鬱な世界から抜け出せたと思ったら死へ一直線の道がバージンロードのように開けているなんて、背筋が凍るほど恐ろしいと思った。
だから俺は残された人々のことを思う。一般的に、子供が死を選んでしまうのは悲しいことだろう。悲しいと思ってもらえるなんて幸せだったと思いながら、子供は死んでいってしまうのだろうか?
もし俺が現実?世界に戻ってこれなかったら、少しだけ傷ついた浅荷は再びまた歩き出せるだろうか。きっと歩き出せることだろう。俺が死んだぐらいで歩みを止めてはならない気がする。もっとも、俺の一般常識として高校生ぐらいならまだ他者の死を受け入れやす……いや、受け入れられるかどうかは別として、その後の人生でもっと恐ろしく劇的なことが起きすぎて、その時々でその死を忘れるほど忙しくなってしまう。死と向き合っていたら乗り越えられないほどの試練がいくつも彼女を、彼を強くする。
俺はこれまで、まだ甘えていたいだろう歳でお母さんとかをなくしてしまった女の子や男の子を何かしらの事件なり事故なりで知るたびに、なまじ死という概念を理解できてしまうほどの理解能力を持ってしまったことで、3歳とか0歳とかでなくしてしまうよりも、とてもきつくてつらいことだろうと思っていた。
それは別に今も変わらんし、実際どれほど見が引き裂かれた感じになってしまうのか想像もできないのだが、そこで生きられたのであれば、周りのもっと悪い連中がもっとひどいことを彼女たちにしてくる。それで心が壊れなければ、そいつらの加害などなかったかのように、死があったことと同居しながら生きていく……のだろう。
問題はそれぐらいのことを平気でしてくるカスがこの世にいくらでもいることだ。そいつらに浅荷の心が傷つけられるかも知れないと思うと、全くここで死ぬなんて情けないとしか思えないのだが、少なくとも俺が死んでも浅荷は死なないのであれば、俺が死ぬことで起こり得るネガティブとは、俺の人生が終わるということだけだ。俺は人生を続けることができなくなるという損してしまうかも知れないが、俺の損はそれぐらいだ。俺の持っていた業務はどうなるだろう。誰かがなんとかしてくれる。それがプラットフォームの存在意義だ。保険もクレカも持っていない年齢でよかった。相続で誰かに責任をなすりつけたりすることもなくて……良かった。