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「~からだけ得られる栄養がある」←あるわけねえだろと思っていた

ぼくはネットスラングとかSNSとかでしか通用しない単語をできる限り使わないようにしようと務めていますが、それでも「ネット語を使わないという選択」ができるのって割と贅沢なんだろうなと思っています。ヘッダ画像をお借りしています。

その理由は、積極的に利用しなくてもなんとなく意味がわかるのがネット語だからというものです。

ネトスラ

今から引き合いに出す両方とも速攻で滅びてくれればいいぐらいに思ってるんですけど、例えば今年の流行語を決めようとした場合、雑にどうこうする、とか、~からしか得られない成分がある、みたいなものをぼくは選ぶと思います。滅びればいいのに、と思っているにも関わらずです。

こうして今年の流行語(全然公式でもなんでもない、ぼく個人の一方的な考え方によるものですが)としてエントリーさせられるほどに、見ただけで意味合いがわかるのが上記だと思う。

意味としてはそれぞれ
・「何かわけのわからない、予定していない目に遭っている」人に対して、その人が上げた悲鳴とかを聞いて喜ぶ的なもの
と、
・何も考えずに意思決定でき、それなりの結果を残せる
という内容だと暫定します。

よくゲーム実況とかで、はちゃめちゃに難しいゲームを集客のために遊んでいる実況者が見事にうまくクリアできず、ふりだしに戻ったりする場合に前者が書かれることがあったり、後者はもはや惰性と化したオンラインゲームなんかの定例イベント・期間限定イベントが開催されたりでまともに付き合うのが馬鹿らしくなって(ゲーム自体もうなんで続けられているのか不明なレベルのモチベーションと推定する)、手持ちのこまでなんとかやりくりして最小限のタイパコスパでイベントを終わらせる、みたいな時に使われると思う。

たまたまですがどちらも対象に大して非常に上から目線ですね。それもネット語の為せる業のような気がする。ぼくはしょっちゅうどうしてインターネッツでは上から目線でしかものが語られないのかみたいなノートを書いておりまして、今更という感じがします。余裕ぶっている自分を見せていないと見えない敵に舐められる気がしちゃうんでしょうね。きつい

知り合いたての相手に対する興味

ぼくもこれまで色々な実況を見てきてて、適当にマガジンあたりを開いていただければそちらについて言及しているため見る必要こそないもののご覧になりたければそちらを参照いただきたいんですが、そのいずれに対しても上記の言葉ではないものの似た感覚を得ていたことに気がついた。

(補足すると雑にうんぬん~には全く該当しない。雑は雑で単純に日本の前例文化とかフレームワーク文化がゲーム市場において明文化されただけ、というような結論を既に持ち得ているので別の機会に)

それはその人のゲーム遊びからしか味わえない時間を楽しむ的なことであり、その人の性格が自分の心のどこかに合うのだと考えられる。余りにも当たり前過ぎていちいち文にするのが変な気がするし恥ずかしいけど、そう思えたわけです。

そしてそれは「知らない人を知った時、その人を認識し始められた時」の感覚にも似ていると思った。だから別にその人が自分の好きなゲームで遊んでなくたって良いわけです。なんなら何のゲームで遊んでいようと関係ない。

学業なりビジネスで新しい人と知り合い、その先も何度か顔を合わせなければならない相手だったとして、その人を生理的に嫌いにこそならなければ「興味」がわくのだと思います。これは別に性別に関係しない。

そしていつしか、「この相手ならこれに同行した際、自分がどのような結果を出してしまった時にこのような意見を言うだろうな、そして俺はそれを言ってもらうことを期待しているのだな、だからこの相手と同行しよう」みたいな計算が無意識的に働くんじゃないだろうか。

だけどいつしか、そのような自分が期待する反応しかされなくなったらなったで飽きるんだと思う。それは結構悲しいことです。悲しいと言いますか原因が自分なので、哀れであり自分勝手、自業自得な気もする。同じ反応しか返さねえのかよ、みたいなことを思うのかもしれないけど、そりゃお前が好反応だから相手も気を遣ってそっちに振れ幅を取ったんやろ、みたいな……

それをぼくはときメモガールズサイドの実況で気がついた。実況している人(悪魔)を別に以前から知っていて、急に見始めたわけでもなんでもないんだけど意外にFPS以外でも遊ぶんやと、何ならGSは人が遊んでいるところを見るのがぼくは好きなので見始めた。

最初めちゃくちゃ口が悪い時があんなと思ったんですけど、それはぼくがあまり見ていないFPSゲーで遊んでいる時の名残かなと思っていた。CoDとかRaftで遊んでることもあるから、それに慣れてないわけじゃなかった。

恋愛ゲームは対人ゲーとも言える。駆け引きは命の奪い合いじゃなくて感情ですね。プログラムされたイラストレーションが喋っていると捉えるのか、実際にそこに男がいて自分がどきどきしていると思うかどうかです。後者だからこそGSで遊ぼうと思えるのでしょう。

なんでぼくが人が遊んでいるGSが見たいと思うのか、そしてそれを楽しいと思えるのかについては別途考える必要こそありますが、見ている時は(申し訳ないけど平日にアーカイブかなんかとしてBGVとしながらな時もあるけど)実況者に対して自分自身が憑依して、一緒にGSの学校生活を体験している気分にでもなるのでしょうか。

それだと自分に近い選択肢が選ばれなかった場合、実況者に不満を持ちそうな気がするけどなんと言いますか……いつの間にかその時期を越えてしまった気がすると言いますか実況者とゲームにそこまでの執着をいだかなくなって久しくなったように思える。

例えが正しいかどうかいまいち自信がないけど、実況者のシナプスの一部になったと思うと自分では納得できる。つまり理想じゃない行動や選択肢が選ばれたとしても、自分は実況者の脳内かなんかにいるシナプスだかニューロンだかに過ぎないから、一応実況者もその選択肢を探ったけど選ばなかっただけで、可能性のひとつだと言えるからなんじゃないでしょうか。

ぼくはほとんどリアルタイムチャット欄とかに書き込まないけど、実際に書き込むなら、事実上少なからず影響がある気がする。

「~から栄養を得たい」とかじゃなくて、その人がどう思うか知りたいみたいな「物語の先を読んでる気持ち」になるんでしょう。やっぱりちょっとスラングの意味しているところとは多少交差こそあれど究極的には違うかもしれない。でも人と人とのwin-winな関係を(こっちが一方的にかもしれないけど)築けることについては可能性がある気がする。

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中村風景
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