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成果主義アドトラック

ヘッダ写真をお借りしています。R1グランプリ2022のお話です。

絹江にパンはデジタル芸なのか?

ZAZYがデジタルに頼らなければ芸ができないのかといえば決してそうではないですよね。

彼の知名度を押し上げた芸のひとつである「絹江にパン」を観ても「デジタルツールなどなくても、完成された芸を披露する素養」は確実に彼に備わっていることがわかる。

絹江にパンはデジタルでもなければオートメーションでもありません。自分で、自力で、手動で紙をめくらなければ、歌を歌わなければ芸というエンターテインメントとして成り立たない。

また言い方もZAZYじゃなければあまり紙芝居の内容を成り立たせられなさそうに見えます。絹江にパンパンパンガトリングパンのあたりは彼の言い回しでなければお寒いことになりそうです。

逆に、ROCK YOUやWant youの部分は誰が話しても同じように滑り散らかすでしょう。

R1におけるZAZYの正統性を裏付ける仮定

R1の2022におけるある仮定を2つします。

仮に、制作側がZAZYにあれほどの巨大モニタを貸与したのであれば、
搬入許可を出した時点で、
彼の「デジタル芸」も「体当たり芸」と同様に評価すべき土壌にあると証明されているのではないだろうか?

もちろん、あの巨大なモニタから何からすべてZAZYの自前で、恐ろしく面倒で回りくどい許可をとって本人が搬入にこぎつけたのかも知れない。こちらはもう一つの仮定です。

ただそれでも「そのような芸(=デジタル・オートメーション)」が披露されることが認められた時点で、デジタル芸だろうが裸一貫芸だろうが平等に評価することがR1のコンセプトである、と結果的に視聴者全員が推し量ることができないだろうか?

現代の営業行為(笑わせの営業ではなく)

似た構図は現代のセールスにもあるように思えます。

営業ができるかどうかはパッションでしかないと評価された時代があった。

体育会系が根性を評価されて、鳴り物入りでスカウトされたように営業に配属されることがあっても、やることは「勢い」と「乗り」と「熱情」から繰り出される口八丁で相手に何かを売りつけることです。

それが通じた時代もあった。体育会系が重宝されたのはその苦労経験が「かわいがり」という記号に変換される場合もあるからですね。

あと業界の体質として、全く同じようなことが何年も繰り返されて来、その新人の営業を受けた相手も過去に同じようなセールスをやってたから「その気持ちわかるよ」で買ってあげる。

ところが今、人と人がリアルに会ってはいけない時代が訪れると、パッション営業なんてアホらしく受け止められるようになった。

ビデオ通話の営業でパッションをぶつけられたって「なんぞ画面の向こうで言うとるワ」程度にしかならず、この人の情熱を信じて物を買ってあげようという気持ちは到底得られないからです。

それがテレビにも言えるのではないか、テレビのエンターテインメントの本質とは何か。最後である次回はそちらについて触れたい。

それでは素敵な週末をお過ごしください。

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中村風景
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