デンゼルの原西性について
ぼくは最近デンゼル・ワシントンについてのエントリをよく書いてるんですが、それは映画をやたら観るようになったからです。ヘッダ画像をお借りしています。
しかしながらデンゼルの良さには気づいておらず、数日前のエントリを見ていただければ分かる通り最初は「何やねんこのいたずら親父は」と悪態をついてしまうほどの印象を抱いてしまった。
結果的にそれは人をそういう気持ちにさせるのが主目的の映画だったのであり、デンゼルはその文脈に従って職の業をしただけのことであり、わかりやすくいえば演技が凄まじかったのである。
その映画とはフェンスでした。
わかりやすい黒人虐待を黒人のみが映される世界だけで書いているところがまた恐ろしい。白人のいやらしさなどなく、黒人の内省的な痛みだけがただただ映されるきつい映画である。
問題意識がある人が観るべきであり、映画が娯楽だと思っているようなぼくみたいな人はあまり見ちゃいけない。同様なことがマレイニーのブラックボトムにも言える。
https://note.com/fuuke/n/n6e81d27a923f
翻って原西孝幸を見つめ直すと、その動きには無駄がないといいますか、説得力しかないことがわかります。それは彼の職の業を遂行している時だけでなく、普通に会話をしている時であっても発揮されているとわかる。
これがデンゼルとの共通点であり、「自分の意識」と「自分の体」を自由自在に乖離させているんですね(たぶん)。
だって客観的にどう見えるかがわかってなけりゃ、あそこまでわかりやすい体を使った表現ができないわけです。デンゼルが笑ったら、次の瞬間にその笑いかけた相手がボロカスにされているのと同じです。
原西は自分の体についてメディアだと思っており、これはマクルーハンのメディア論的です。体とは自分にたまたまセットになっているものであり、職の業においては「ツール」でしかない。
画家にとってのキャンパスと同じであり、文を書くやつにとっての原稿用紙です。体を「どう見えるためにどのように動かすか」だけが勝負なわけです。勝負とは別に勝ち負けとかじゃなくて、伝わるかどうか。そして完璧に彼らが物事をリスナーや視聴者に伝えているのであれば、その勝負の結果がどうなっているかは然りである。
比べちゃ悪いけど原西のコンビ相手とかと比べると顕著である。一時期原西のギャグの後にやたら歩き回るみたいなことをしてたけど、あれはそれ自体を持ち芸にしようとしていただけであり、原西の最低限の動きで全てを伝えようとするそれと真っ向から異なる。むしろだからこそコンビとして成立しているのかも知れませんが。
デンゼルも原西も、自分の体をどう動かすと相手に何が伝わるかを知り尽くしている。知り尽くすためには充分な入念な準備が必要である。彼らは賢者であり、常に挑戦者なのだ。