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ごんごんごん鳴るモンクの音
ヘッダ画像をお借りしています。
ジョンウィックパラベラムに至るまで、ジョンウィック1話(後付けでChapter1とされるのでしょうか)で抱いた愉しさや衝撃がガンガン色あせていっているなあと思って見ていました。
それだけで5個ぐらいnoteを書いてしまうのであまりよろしかないのかなぁと思っているんですが、別に何か政治とか宗教とか野球とかをくさしているわけでなく文化・文学的所感を書いているだけなのでまだ前向きと言っていいだろうかと思って自分を奮い立たせています。
ところで女のいない男たちを原作にする日本映画であるドライブ・マイ・カーの海外評価ガン上がりに伴って、色々な映画批評家なのか研究者なのかわからない方々が映画評を書いていて、ぼくは批評行為とはこの世でもっとも金にしてはならないとは思っているのですが読む機会があったため読んでしまいました。
そこで新たな発見ができた。
ドライブ・マイ・カーの魅力について語った大学教授がいて、その人は南カリフォルニア大学映画芸術学部のリピット水田堯さんです。
ハリウッドにありがちな(これは水田さんの評ではなくぼくの勝手なイメージです)けばいプロモーションとかに頼ることなく、映画本体がおもしれーから売れたんだね、と水田(以下敬称略)は言っている。
さらに、カリフォルニアにはスローシネマという概念があるらしい。これはマーベルやアクション映画の真逆にあるもの。ドライブ・マイ・カーがこれにあたるそうです。
時間をかけて、ゆっくり見る映画というものはそれまでのアメリカにはなかったとされているが、ぼくはマジかよと思いました。
だってそれはまさにぼくが映画(何やらこっちではヒューマン映画と無理やり分類される)に求めていた内容だったため。一般的なイメージではトム・ハンクスが主演するとそうなりがちでしょうか。
例えると、ハリウッドではないけど最強のふたりもそうでしょうか?最強のふたりは結構エキサイティングにすぎるかもしれませんが……
ともあれくそ偉そうな言い方をすると、ぼくがジョンウィックに求めていたものはこのスローシネマ然とした感覚だった。
1話のジョナサンが妻と死別した家に1人残されて、動物と戯れ、普段何をしている人なのかはさっぱりわからないがゆったりとした寂しさのある生活を見ているというエンターテインメントがありました。
以降はそこからのギャップで……という言わばぼくがシンパシーを感じたジョナサンの描写は掴みに使われていたわけですね。
水田の映画評を読んで、ぼくは
「たまたま、ジョンウィック監督による
『ジョナサンを何もない普通の一般人として見せようとする描写(本来の目的はジョナサンを極めて普通やそれ以下の悲しみを背負った人間であると印象づけつつ、後半のあれこれにつなげること)』
を、元来ぼくが映画に求めていた状況描写としてぐんばつなものとして下手に受け容れてしまったことで、Chapter2以降の単なる記号の使い回しにがっかりした」
と理解することができました。
第三者に言われないと気づけないほど、Chapter1の描写はぼくを撃ったのでしょう。
そしてぼくはジョンウィックのChapter3(パラベラム)より後に何がリリースされても見るべきではないのだな、と思いました。
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