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いつまで「人の死」が承認欲の更新に消費されるのか

承認欲求とは成功体験の積み重ねとも言えてしまうんですよね。こんなことで借りていいのか自信がありませんがヘッダ画像をお借りしています。

人の死が消費されるということは、第三者にとって第三者の死とは所詮イベントでしかないということです。そこに当事者意識なんてまるでない。

身内が死んでしまった。割と著名な人だった(別に著名じゃなくたっていい)。肉親じゃない人がそれを知った。「ご冥福を云々~」とか決まりきったせりふを言う。

こっちは肉親が死んで悲しみに暮れているのに、ご冥福なんて祈れるわけがない。つまり当事者ならそんな切り替えなんてできるわけがない。

冥福を勝手に一方的に祈る行為とは切り替えを示します。誰々が死んだけど、ぼくらは生きているし明日からも生きようぜ。

で有りながら即座に切り替えを表明する行為が何を形成するでしょうか?「切り替え」という世論を形成します。

誰かが死ぬと、誰もが示し合わせたように「はぁん冥福~~~~~~~~~~」と書く。言う。まるでそれが大衆の創意であるかのように言う。つまりその故人に対しては、ぐずぐずと死を悲しんでいるいとまを与えずに、冥福を祈らなければならないと一方的に、自分勝手に促してくる。

誰かが死んだ感想をSNSに投稿して、自意識を表明する。その行動パターン大丈夫そ?と思わされる。

著名人の場合の死ってこれがマジできついと思ってます。親が死んで悲しいのに、勝手に市井の連中はこういう人だったこういう時に世話になった、生前に出版したあれこれがどうだった、と、「意味不明に評価するフェイズ」に移行しているわけです。もちろんこの行為も当事者以外による一方的な「切り替え」。故人は過去に置かれた。

これって死者への冒涜じゃないのか……?と考えさせられる。だって「死んだ人」というツールを使って、自分の感想をアウトプットするという自己実現を実施しているわけです。「死んだ人」を「ツール」に使っている時点で、もう何をか況(いわん)やと思ってもらえるぐらいまだ人々の心に情緒が残っていればいいなぁと思う。

人が死んだら立ち尽くすことしかできないんじゃないだろうか。なら戦争状況下では?戦争とは起こってはならない事象なので問題として成立しない。

人が死んだらその場に立ち尽くす、別に座っててもいい。それが情緒なのではないだろうか。すぐに病院側が手配して、葬儀屋は病院が懇意にしている駅前のどこどこが良くて会場も近くのどこがいい、みたいな会話を始めることを周りが強制してくる is 何?と思わされる。なぜ人が死ぬと「何もしない」ができないんだ……?

大切な人の死に直面した人の周辺には一定時間バリアみたいなのがはられて、誰も近づけないようになってしまうべきじゃないかなと思える。

「誰か死んだ!」→「良い人だった!!」→「その人がもういない明日からを受け入れ、その人のために祈ろう!!!」がスムーズに進められるシステマティックないきものなんだろうか?人間とは。

「あたしあん時あんな感じであの人の死を悼んだら(そんなもの悼みではない)めっちゃいいねついたから、今度は勝手にこんな他者に著作権がある画像を勝手に使ってこんな文で祈ろwww」みたいな投稿を遺族が観た時に、当該投稿者とはどんな自分でいられるのだろう?またそいつの家族は何を思うだろう。

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中村風景
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