コーチェラときみの死と”Thanks Dave”
ぼくはコーチェラ・フェスティバルはともかくGorillazのFeel good Inc.のステージについて大きな勘違いをしていて、我が身の不明を恥じた。
それはFeel good Inc.の時にだけ登場したラッパーたちがDE LA SOULというグループであったこと、かつてFeel good Inc.で一緒に音源を創って以降、Gorillazとは積極的に関わっていたことを知らなかったことに端を発す。
さらにその大きな関わりを持っていたDE LA SOULのひとりがごくごく最近逝ってしまったことを知らなかったことを恥じた。
逝ってしまったのはTrugoy the Dove、Plug Two、Daveとしても知られる David Jude Jolicoeurだった。ああ、ぼくはDE LA SOULが三人組であることすらこの時に初めて知った。彼らの声をしぬほど聴いて育ったというのに。
ぼくはどんな気持ちで2人となってしまったDE LA SOULが、あのステージに立っていたのかを考えると涙が止まらなくなってしまった。昨日は昨日で好きなものを批判しておいてどういうことだか自分の感情の持って行き先がうまくつかめない。
ただでさえ春という変温動物にとって急激な気温変化に体躯が耐えられない時期に(いくつかの故障は3月後半にあって、今の所ぼくはなんとか耐えてはいるものの)感情まで揺さぶられ続けるのは危険だ。自分で勝手にそこへ入り込んでいるのだとしても。
誰かの死を越えた時、それ以後のアクティビティはすべて故人宛めいてしまうことについて故人はそこまで嬉しくないはずだとぼくは思っている。そりゃ最初は、もういない自分のことを求めてくれて嬉しいだろうけど、いつまでもそうされてしまい、残った人たちの生活に支障が来されたらそれが故人にとって自分のせいだと思いかねない事象となってしまうからだ。
DE LA SOULを従えたGorillaz、いやGorillazを従えたDE LA SOULの2人はコーチェラ・フェスティバルにおいてボーカリストだった。ラッパーとは自らを楽器とするものだ。ぼくはラップ系の歌を好んでは聴かないが、DE LA SOULのそれはあまりに違っていた。
DE LA SOULのヴィンセント・メイソンがいなければFeel good Inc.は成立しない。歌は彼の笑い声から始まるからだ。その笑い声とは(その歌の世界観の構成に寄与する)舞台装置としての意味があり、まさに楽器だ。
その笑い声がなければFeel Good Inc.は成立しない。昔ぼくは、なぜ日本版とか輸入盤?で笑い声が入っているバージョンとないバージョンがあるんだろうと不思議に思っていたが、なければならないことに最近気がついた。
おかしな感情だ。笑い声、人の大爆笑を聴いてぼくは涙を流している。コーチェラ・フェスティバルという祭典において泣いている。「笑う」と「泣く」は全く対極にある感情ではないのだろうか?
ヴィンセント・メイソンの恰幅のいい姿は、以前もぼくが好きだと話したPlaying for Changeの今はなきグランパ・エリオットを思い起こさせた。
それだけではなく、ヴィンセント・メイソンの大切な舞台装置である爆笑はDaveに対しても贈られていることは誰の目にも明らかだ。
さっき言ったけど、誰かのいなくなり前後における残された者たちによるアクティビティとは「引きずってしまう」ものだ。
だけどぼくはコーチェラ・フェスティバルをしてこのステージがDaveのためだけに捧げられたレクイエムであるというような美談仕立てを言いたくはならない。だからヴィンセント・メイソンの高らかな声がレクイエムだみたいな美辞麗句を述べたいわけじゃない。
受け取ったぼくらがDE LA SOULをどう思うかだ。ぼくは果たして最初のエントリでまるで劇的にメイソンの笑い声を表現したけど、彼の第一声がかき鳴らされた裏にはさらにどんな思いがあったのだろうと考えると勝手な話ながらさらに涙がこぼれてしまう。明日以降はその話を書きたい。