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「それでもゲームで遊んでしまう理由」を千葉大名誉教・日比野治雄インタビューで知る

なぜぼくたちはゲームで遊んでしまうのかについて日クロの日比野治雄インタビューでわかったのでアウトプットしています。ヘッダ画像をお借りしています。

本来のインタビューの趣旨は承認欲求に負けてアヘ顔お買い物してしまう現代ユーザについて。この言い方はひどすぎワロタだろうけど、日クロは日経系列の中でもマーケティング特化型雑誌なので仕方があるまい。

日比野はこんなことを言っています。全文引用すると有料の意味がなくなるので題意を書きますね。

ゲームはすぐに何らかの良い数字が得られた上に、さっさとクリアできれば嬉しいように見えがちだ。

しかしながらそんなことはない。

仮にそんなゲームがあったらまるで面白くなく人気も出ない。

何らかの労苦を犠牲として支払い、たとえ地獄のような単純作業だろうと繰り返して上達あるいはゲーム内経験値が得られたのであれば、その帰結としてクリアが飴と鞭における飴になるだろう。

これはガチ目に題意を出力しただけなので気になった人は日クロをお買いください。

面倒なことがあるほうがその先に受け取れる何かしらを喜べる一連のこれ系をコントラフリーローディング効果というらしい。まずいエナドリを喜んで飲む人とかもそうらしい。

けど話が完全に逸れてしまうが、エナドリは砂糖……といいますか精製糖という甘味料の中でもぶっちぎりで消化器にダメージを与えるものを喜んで食ってるのと同じであり、

血糖値を一時的にガン上げして、リンパとかが腫れ上がったりして動機が激しくなることで急激に「目が覚めた錯覚」を与えているだけに過ぎなく、誰もが等しくエナドリなんて飲むべきではないのだ。向精神薬と一緒に飲んでいる人を見たことがあるが、多分セルフネグレクトをすることで向精神薬を飲んでいる自分に対する皮肉を全身で表現したいのだろうと思い、ぼくは何もアドバイスできなかったことがあった。アドバイスなど所詮当人でもないのに他者が上から目線でする行為でしかないのだ。

日比野の話に戻ると、ゲーマーとはわざわざ「くそみてえな難易度」を乗り越えることにカタルシスを得る異常生物ということになる。身におぼえがあって否定できない。

できなかったことができるようになる、邪魔だった者どもを蹴散らせるようになることにカタルシスを感じるのはそりゃそうだろとも思えるが、そこを求めすぎて……といいますか「難易度市場」のようなものがもしあるのだとしたら、殊ゲームにおいてはその見極めが先鋭化しすぎてくそ難易度が繁茂してしまっているようにぼくには見えることがある。

https://note.com/fuuke/n/n57e8ded0cd93

くそ難易度とは、10回に1回、ユーザの実力とかに関与しない運のような不確定成分がゲームクリアに寄与するといったものであり、オンゲーとかに如実に見られる。

ユーザは限界までキャラクタなり軍団なりを育てきった上で、ようやくその「通り抜けられる確率」みたいなものを1/100から1/10とかに緩和できるというようなものであり、ぼくを例に出すのだとすればぼくはこれまでそのような「理不尽」のみによる難易度調整を試みたゲームをことごとく見限ってきた。

それは「ゲームデザイン」という本来の難易度調整とは違う。幼稚園児が出してくるなぞなぞ(どうして人は生きてるの→神様が作ったから/古代生物が進化したから)みたいな低レベルなものだ。

つまり金銭授受を伴う「社会」「経済」行為などに本来組み込んではならない例であり、ゲーム市場からはそのような理不尽な調整は景品表示法とかでペナルティを与えるなり、排除すべきなような気がするんだけど。

(日比野の話からはこのような暗い、一部の不穏当なゲーム会社が強要してくるような話題以外にも感じ入るところがあるため、また日を分けて考えましょう)

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中村風景
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