本を読むこと。 ~ 方丈記に学ぶミニマリズム ~
最小限度のシンプルな生き方に回帰する「ミニマリズム」、その言葉が流行って数年経ちますが、現代の過剰な資本主義、物質主義に対するアンチテーゼの1つの文化として定着しつつあります。
私は完全なミニマリストではありませんが、家造りや自分の所有物に対する考え方はこうしたミニマリズム的な発想に基づいて行っており、極力自分の所有物を減らし、それらを管理する時間を減らすことで、自分のための時間を最大限にすることは、自分の内の幸福感を高めることに繋がっています。
こうしたミニマリズム的な考え方は決して新しいものではなく、その古典としては以前もご紹介したH.Dソローの「ウォールデン 邦題:森の生活」があると思います。
この本が刊行されたのは1854年、アメリカには鉄道が敷かれ、工業が発展して街が都市化していき、生活環境が変わっていく中で書かれており、ソローの実験的な森の生活は今もなおソローの経済学、哲学として現代に息づいています。
しかし、我が国日本においてはそれよりももっと古いミニマリズムの根源とも言える古典が存在します。
それは、鴨長明によって建暦二年(1212年)に書かれた「方丈記」です。
「方丈記」は清少納言の「枕草子」、兼好の「徒然草」と並んで、日本三大随筆の1つに数えられる名作であり、中学、高校の国語で習った方も多いと思います。
世相を表す災害や飢饉について丁寧な描写から、当時の日本人の生き方や文化を学ぶことができ、そうした世相や環境によって人生を左右されながら、たどり着いた長明の生き方、考え方が美しい日本語で綴られています。
序章の有名な一文ですが、今読むと言葉の流れと美しさが非常によくわかります。
そして、この一文だけで、長明の生き方の根源となる「諸行無常」の考え方が示されています。
長明は京都の下鴨神社の神官の子として生まれ、長明が生きた時代、京都では大火や飢饉によって多くの人が家を失い、命を失いました。
どんなに高い身分であっても、どんなに立派な家であっても同じように永くそこにとどまっているものはないという実体験から、この一文が生まれ、まさにこの世は諸行無常、いっときの繁栄も所詮は水の泡(バブル)のようなもので儚いものであることを表しています。
こうして長明が晩年たどり着いたのは、後にミニマリストのお手本ともいえる「方丈庵」でした。
方丈は一丈四方の広さをいい、一丈は約3.03メートル、つまり方丈庵は縦横3メートル、四畳半から五畳半ほどの正方形の小部屋になります。
この部屋は寝る場所、祈る場所、和歌や音楽を楽しむ場所ときっちり機能が分けられており、庵の東側には1メートルの庇(ひさし)と炊事場が設けられ、南側には水道が敷かれていました。
そしてこの部屋は簡単に折りたたむことができ、設置、移動も簡単にできるように作られていたため、いつでも気ままに住む場所を変えることができたのです。
現代でいうところのプレハブ住宅、キャンピングカー生活といったところでしょうか、非常に合理的かつ長明の哲学をそのまま形にした生活スタイルです。
長明はこの部屋と自由気ままな生活が気に入りすぎて、この生活に「執着」していたのですが、「執着」は仏道の教えに背くことになると急に自分を戒め、反省しながら「方丈記」を終えています。
中には孤独な生活でちょっと人恋しいのでは?ともとれる表現や、都会の華やかな場所での仕事や生き方を無理やり否定して、自分の生活が一番であると強く論じている場面もあり、ちょっと都会生活に戻りたいんじゃないのぉ〜?と突っ込みたくなるところも、人間らしさが現れており、「方丈記」を面白い作品にしています。
ソロキャンプなど孤独と最小限の装備で生きることを楽しむことが流行していますが、方丈記を読んでいると今も昔もその生き方には一定の価値があり、日本人のDNAに組み込まれているような気がします。
誰しも自分の「方丈庵」が欲しいと思っているのではないでしょうか。
私も家を建てる際に三畳ほどの小さな書斎を作ってもらいました。
手の届く範囲、見える範囲に自分の好きなものだけが詰め込みられた空間。ここで静かに本を読みながら、過ごす。
あぁなんという贅沢。
ここが私の「方丈庵」。
本日は私のミニマリズムのバイブル、「方丈記」についてご紹介させていただきました。
最後までお読みいただきありがとうございました
ミニマリズムのバイブル