本を読むこと。 ~ 自分の木の下で ~
これまで「読書をすること。」では、なぜ「読書」をするのか、どのように本を読んだら良いのか、私の経験を元に、その方法論についてお話してきましたが、今回からは、自分の人生に影響を与えた、素敵な本についてご紹介してきたいと思います。
これまで読んだ本は述べ500冊以上になりますが、その中で一番最初にご紹介したい本は大江健三郎さんの『「自分の木」の下で』です。
こちらの本はエッセイストであり、作家である米原万理さんの「打ちのめされるようなすごい本」という本で紹介されていたことからその存在を知って、読んだ本です。
大江 健三郎
大江 健三郎(おおえ けんざぶろう)さんは、現代日本文学の頂点に立つ作家の一人であり東京大学文学部仏文科在学中に学生作家としてデビューして、1958年、短編「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞し、新進作家として脚光を浴びます。
「詩的な言語を用いて現実と神話の混交する世界を創造し、窮地にある現代人の姿を、見る者を当惑させるような絵図に描いた」との理由で1994年にノーベル文学賞を受賞されています。
多くの小説の他、自身の戦争体験や知的障害を持つ子を授かり、育てた経験などを綴ったエッセイも数多く残されています。
今回ご紹介する『「自分の木」の下』では、人生で出会う難題に対して、子どもに語りかける形で選ばれた優しい言葉を綴りながら、これまで大江さん自身が子どものころから考えてきた、生きて学んでいくための知恵を伝えています。
なぜ子供は学校へ行かなくてはいけないのか
著者は戦時中と戦後の教育の変化と先生の突然の様変わりを経験し、不登校になります。
そして森で植物図鑑を開く日々を過ごしますが、そこで豪雨と土砂に巻き込まれ森で倒れてしまいます。
死海を彷徨っている中での母との会話で母は、
「あなたがもし死んでも、私が新しいあなたをまた産んであげます」
「でもそれは僕とは違う子供でしょ?」
「あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます、だから二人の子供はすっかり同じ、あなたです」
なんだかわからなかったがその後に静かに眠りにつき、起きたときにはすっかり回復していました。
その後、復学した著者はもしかしたら私達はすべて大人になることができずに死んだ子の新しい子なのではないか、
だから僕はその死んだ子の言葉を受け継いて、このように考えたり、話したりしているのではないのか、
そして体操や算数や理科も死んだ子供らの言葉を受け継ぐために必要なのではないのか、
だから学校きてみんなと勉強して遊ぶことが必要なのではないだろうかと考えるようになり、不登校はなくなりました。
また、自分の知的障害をもつ息子の特殊学校の中での友達との交流の中で、
息子が音楽という言葉を覚えて、友達と会話できるようになった様を見つめて気づきます。
息子は学校で社会と繋がっていくため一番役に立つ言葉を覚えました。
理科も算数も体操も音楽も、自分をしっかり理解し、他の人達とつながっていくための言葉です。
そのことを学ぶために子供は学校へ行くのだと大江は述べています。
質問をすること
父は私が質問をするたびに、自分が何を聞きたいのかをよく考えてから質問するように、その考えの中で答えを思いつけばそれがいちばんいい、
それがなければいけないと言いました。
ついつい時間がないとすぐに答えを与えてしまいますが、子供に考えさせることや答えを出す喜びも教えてあげるのも親の努めです。
子供が質問をするときは、子供に考えさせるきっかけになります。
質問を質問で返すと嫌がられることもありますが、少しづつヒントを与えながら考えてもらい、答えを出す喜びを知ってもらえたらと思います。
文書を書くこと書き直すこと
文章を書くことと書き直すことは良い習慣であると大江は言います。
とくに書き直すことは自分の文章がより理解してもらえるようにするという効果と、文章をよりよいものにするという効果があります。
スポーツの練習で肉体を鍛えることができるように、文章を書く練習で精神を鍛えることができると言います。
私も記事をひとつを公開するのに2度3度と言い回しを変えたり書き直しをしますが、それでも誤字や表現、言葉のリズムに気に食わないところが見つかるため、公開後もけっこう直します。
そうした繰り返しが「自分らしい」書き方を身につけることになると思います。
私はこの本で大江さんの文章をはじめて読みましたが、とにかく大江さんの文章は美しく、とても読みやすく感じます。
先生という仕事
大江は本書で、ノースロップ・フライの「大いなる体系」という本の一説から「先生」について考えています。
先生とは、本来、知らない人間に教えることを知っている誰か、というのではありません。
かれは、むしろ生徒のなかに問題をあらためて作りだすようつとめる人であって、それをやるかれの戦略は、なによりも、生徒がかれにすでに、はっきりとは言葉にできないけれど知っていることを認めさせることなのです。
知っていることを本当に知ることをさまたげている、心の中の抑圧の、いろんな力をこわすことを含みます。
非常に難解な文章ですが言いたいことはなんとなくわかります。
ソクラテスがプラトンを相手にそうしたように対話により相手の気づきを促すのが「先生」なのだと思います。
そう思えば、誰もが「先生」になることが可能なのです。
学びの三段階
『定本柳田國男集』では第19巻からの引用で学びの三段階として、
先生から教しえられたことをそのまま真似る勉強の仕方を「マネブ=マナブ」、それを自分で活用することができるようになることを「オボエル」
そして教えられなくても自分で判断できるようになることを「サトル」と分けられています。
「マナブ」から「オボエル」まで進まなくてはいけないし、できれば「サトル」ようになりたい。
自分がこれまで学んできたことがどの段階にあるのかを分けてみると、
意外と「サトル」までたどり着いていることって少ないと思います。
私が「40歳、そろそろ悟ろうか」というテーマでnoteに綴っていることはそ「教えられなくても、自分で人生を対処できるようになろう」ということであり、学びの最後の段階への準備であると言えます。
取り返しがつかないことは(子供には)ない
著者がもっとも恐ろしい言葉は何かと振り返ったとき、
幼少の頃、父が亡くなったその日に母親が父に向かって「取り返しのつかない!取り返しのつかない!」と何度も強く、怒ったように放っていた言葉でした。
大江は「取り返しのつかない」父の死を取り返したいと思い、それができないで怒っている母の気持ちを、子供心に感じ取っていました。
しかしながら子供にとって「取り返しのつかない」ことはないと著者は考えます。
取り返しのつかないことの1つに「自殺」を挙げますが、大人の自殺と子供の自殺の違うところは、子どもの自殺は大人たちに決して理解できないということです。
それは子供にとって「取り返しのつかないこと」はないと思っているからです。
子供が誇りを失わなければ、なんとか「取り返すことができる」というは人間の世界の原則であり、この原則を子供自身が尊重しなければいけません。
そして他人が死ぬまで暴力を振るうこと、自分が死ぬまで自分に暴力を振るうことこの「取り返しのつかないこと」はあってはならない原則であり、この原則をやぶってしまいそうになったときには、「ある時間待ってみる」ことが有効だと大江は言います。
「ある時間待ってみる」ことは非常に勇気のいる行動ですが、この「ある時間待っている力」を奮い起こすことができれば、その時間の間に自分が成長し、たくましくなっているのを感じることができると思います。
この文章を読んで、もし自分の子供がいじめや暴力にあったとき、また其の逆の立場にいたとき、親としてどのように接しなければいけないのか、どのようにしたら子供に勇気を与えられるのか考えました。
自分の子の「誇り」を守りつつ、失敗から立ち直る強さを子供には教えていきたいと思いました。
終わりに
本のタイトルでもある「自分の木」は著者が幼少の頃に祖母から聞かされたお話の一つに由来します。
「谷間の人にはそれぞれ「自分の木」と決められた樹木が森の高みにある。人の魂はその「自分の木」の根方から谷間に降りてきて人間としての身体に入る。死ぬ時には自分の身体がなくなるだけで、魂はその木の根元に戻っていくのだ。」
著者が「自分の木」はどこにあるのでしょうかと尋ねると、
『これから死のうとしているときにきちんと「魂」の目をあけていればわかる。本当に頭のいい魂は、生まれてくるときにどの木からやってきたのを覚えているけれども、軽率には口に出さぬ。そして森の中へ入ってたまたま自分の木の下に立っていると、年をとった自分にあってしまうことがある、
そのときに特に子どものうちはどのように振る舞ったらよいかわからないから「自分の木」には近づかないほうが良い』
というのが祖母の教訓でした。
著者は大人になった自分に次の質問したくて森へ入って「自分の木」を探します。
「どうして生きてきたのですか?」
そして今、自分が質問される側の年齢になって、この問に対してどのように答えるのか、それを長い言葉にする代わりに今まで小説を書いてきたことに気づいたそうです。
そして「私の鼓動が停まった時。あなたの胸に新しい命が宿ることができるなら満足です」との夏目漱石の『こころ』の一文が心に留まり、
「自分がこれまで小説家として知ってきたことをもっと広げて、若い人達に伝えていきたい」
と考えて書いた一つが「自分の木」の下です。
私が「自分の木」の下で子どもの私に質問されたとき、私はなんと答えれるのだろうか。
その答えを見つけることが「人生」なのかもしれません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
紹介図書① 大江健三郎 著「自分の木」の下で