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直観の科学|人生をスススーーっと流れるように生きるために
直観ってなんだろう?
直観を使うためにはどうすれば?
直観はどんなふうに活用できる?
そんな疑問がある人は、ぜひ読んでほしい。
「直観」とは、見えない体である<からだ自体>が受け取る思考や自我を超えた何か。
活用できれば、もっともっと、スススーーーーっと、流れるように生きていけるはず。
今日はそんな、直観のお話です。
『真理の図解』ここまでのおさらい
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名前をなんとなく「真理の図解」に変更しました(また今後、変わるかも)
「『真理』だなんて、まあ大胆」って感じだけども、でも最近この図解で仏教もキリスト教も解釈説明ができることが見えてきて、かつ「仏教とキリスト教って結局同じじゃん」という聖おにいさん的な発見も生まれてきました(読んだことないけど)。
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話がそれましたが、そうした理由から「真理の図解」と呼ぶことにしましょう!
そして最近、私の思想をさらに後押ししてくれる強力な仲間が加わりました。(勝手に仲間に加えました)
フランスの哲学者であるミシェル・アンリさんです。
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今、彼の著作を読んでいますが、彼は私たちには体が2つあると述べています。
一方において、人間は物体にも似た客体的な体として世界にみずからを現わす。そうしてはじめて、人間は、他者にとっても、また自分自身にとっても、目に見えるようになる。この体が動くとき、その動きは外的移動という形をとり、そのために、体と同じように、客体的な現われとなる。しかしわれわれは、この体が、いのちにおいて自分自身を感じとる生きた肉、しかもいのちと同様に目に見えない肉の、目に見える外観にすぎないことを知っている。
*太字筆者
私はこの文章を読んで、震えましたよ…。
だって、下の図を見てください!
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私たちに見えている図中一番上の「海面|現象界」にある「身体」は、ミシェル・アンリが「物体にも似た客体的な体」と呼んだものです。
そして図中真ん中の「波|存在界」にある<からだ自体>こそが、ミシェル・アンリが「いのちと同様に目に見えない肉」と呼んだものです。
(ミシェル・アンリは「肉」という表現はキリスト教の「受肉」とかけてます。真理の図解を使ったキリスト教解説も非常に面白いと思うのでいつの日か記事書きたいと思ってます)
そう、<からだ自体>は目に見えないのです。
前の記事で、「マッハの自画像」を参考に出しましたよね。
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「目は自らの目を直接見ることはできない」という言葉で言い表されるように、私たちは自分の<からだ自体>を直接、見ることはできません。
そしてこの見えない<からだ自体>が持つ空白、スペース、無それこそが、そのまま目に見える現象世界を展開する契機になっているのです。(これが西田幾多郎の言った「絶対矛盾的自己同一」でもあるのですが、これについてもまた今度…)
この<からだ自体>は、「見えた」と思った時点で、それはもう現象界の「見える身体」に堕ちてしまっています。(そう、文字通りそれは「堕ちて」いるのです…。聖書で描かれた楽園からの追放、そして人間が抱える「原罪」もこれを現しているのですが、これについてもまた今度…)
そして私たちが抱える大問題は、この「目に見える身体だけが本当の自分だと思い込み、かつこの目に見える身体が現れる現象界のみを唯一存在する世界だ」と思い込んでいることです。
こうして私たちは<からだ自体>が持つ神秘、ミシェル・アンリが「生そのもの」と呼んだもの、私が「生命それ自体」と呼ぶものとの接触を失い、あらゆる存在を現象界で対象化しモノ化させてしまう。
ミシェル・アンリは、生そのものが隠蔽されたこうした世界を「死の宇宙」と呼んでいます。
そうです、現象界のみが存在世界だと思い込んで、自分も、他者も、自然も、いのちも、生命そのものも、あらゆるものをモノ化してしまう世界は、本当に「死の宇宙」と呼べるものです。(繊細さんや敏感さんは、こうした「死の宇宙」に<からだ自体>が素直に反応します。そして心身がおかしくなったりするわけですね)
しかし現象界とは、例えるなら、海中に浮かぶ私たち自身(からだ自体)が映し出された海面の虚像でしかないわけです。
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例えるなら、上の写真の、海中を泳いでいる魚が<からだ自体>です。
しかし私たちはそうした見えない<からだ自体>という存在には気づかず、海面に映し出される虚像をずっと見つめています。そしてその虚像に映し出された自分、世界のみが唯一の世界だと思い込んでいます。
この状態こそが、ミシェル・アンリが「死の宇宙」と呼んだ、現象界のみを生きていると思い込んでいる私たちの姿だということですね。
ということで、ミシェル・アンリの素敵な思想によって私の「真理の図解」は更にバージョンアップしていけそうです。
まあ、要するにですね、私が言いたことは・・・
<からだ自体>に還れ!
ということなんですね。そして・・・
<からだ自体>ありきの、生き方、教育、ビジネス、地球社会などなどを皆んなで探究し、共創しよう!
ということです。
なぜならこれこそが、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という誤謬から始まった現代を、超克する大切な契機になるからです。(詳しくは以下の記事)
コメントくれた方々、ありがとうございました
「真理の図解」に対して、コメントもいただきました!
ぶっちゃけ文才なさすぎて、わかりづらすぎて、一人凹んでいたのですが…
東京大学で哲学を専攻している大学院生の方には「おもしろい!」と言っていただいたり、またnote内でも「難しいけど何か大切なことが隠れてそう」とコメントをもらったり。
また神秘的な記事を連発しているマスター・ハゲさんには記事内で取り上げてもいただきました(ありがとうございました)
「かれもまたこの名もなきものが過去にしるしてきたことの一部を異なるバリエーションでしるしている」
さて、そうした中で、今一緒に活動している経営者の方にこんな質問をいただきました。
「からだ自体とは、感情とは違うのか?」
「からだ自体とは、フローと同じなのか?」
なるほど、これは面白い質問や…
<からだ自体>って結局、なんだ?
私の言う、<からだ自体>ってなんなんでしょう?
実は私も100%答えを知っているわけじゃありません!(だから探究しておるわけです)
ただ、現時点で一つ言えるのは、この<からだ自体>は、「直観」を司っていると私は考えています。(厳密に言うと「直感」という感覚ではなく、「純粋直観」なのですが…)
なので今日は、<からだ自体>の原理から、直観の秘密に迫ってみたいと思っています。
高校生の英語レッスンでからだ自体の直観を使ったお話
からだ自体の直観について、実体験を話したほうがわかりやすいのではないかということで、昨日起きた話をしてみたいと思います。
私は今、オンラインで英語を教えています。
昨日は、ある高校生の英語のレッスンでした。
レッスン開始直後から、私は何かを感じ取るわけです。
「なんか、ある…」
ただしこの「なんか、ある…」というのは、もはや私の中でも「なんか、ある…」とすら言語化できていません。
今振り返ると「なんか、ある…」と思っていたに違いないと解釈できるだけであって、その時の瞬間は、もっともっと微細な、「なんか、ある…」という言葉にすらできない「なんか、ある…」なわけですね。
その「なんか、ある…」というのは、具体的にどういう感じかというと、その生徒の意識が、生徒自身に向かって内向きに、縮こまってしまっている感じというのでしょうか。そんな感覚。
その子の顔色は悪くなかったです。発言も「正月少しサボり気味だったので気を引き締めて頑張ります」と話していました。
ここで「そうだね。頑張ろう」で終わらせることもできました。表情も普通だし、発言も前向きだし、それで済ませてもよかったんですね。
けど、「なんか、ある…」んです。
もうこれは、言語化不能です。でも「なんか、ある…」。
生徒が、自分の内側に、縮こまるように、収縮していく感じ。いつもはもっと、外側に向かった、溌剌とした意識の流れみたいなものがある気がするのですが、それがない…。
この「なんか、ある…」というのは、私が受け取る感覚でもありながら、その子自身の感覚、つまり両者の間で起こっている感覚なのです。
そう、<からだ自体>の直観は、人と人の『間(あいだ)』で起こっていることなのです。(ここ、すっごい大切なポイントです)
ちょっと、真理の図解で考えてみましょう。
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レッスンを想定すると、図中の「A」が私ですね。
そして「B」が、私にとっての他者、「生徒」です。
現象界で見えるB、つまり生徒は、何も問題ないように見えます。
「私」という観察者が対象化したその生徒を分析した結果は、「問題なし」です。なぜならその子は、顔色も悪くない。口でも「これから気を引き締めて頑張ります」と言っている。
それにも関わらず、「なんか、ある…」んです。
この「それにも関わらず」がポイントです。
思考は「問題ない」と言っている。それにも関わらず、なんかある…。
「それにも関わらず」という言葉は、思考を超え出る契機であり、からだ自体が持つ可能性を現しています。
そもそも思考なんてたかが知れています。
思考は現象界の範囲しか認識できません。そして現象界とは真理の図解で言うと海面に映る虚像です。海面なのでとてつもなく薄い、かつ単なる虚像です。
その海面の下には、からだ自体が位置する存在界と、生命それ自体というとてつもない深淵が深く深く、どこまでも存在しているわけです。
そんな深淵な<からだ自体>に比べると、私たちの思考で捉えられる現象界なんて、本当にちっぽけです。
からだ自体のほうが、現象界上の「私」の考えや「生徒」の発する言葉よりも、とてつもない深みを持っているわけです。
しかし、ほとんどの人は、こうした<からだ自体>のサインを、単なる「気のせい」として流します。
むしろ「気のせい」として流すことが癖になりすぎていて、自覚すらできません。
これが現代の恐ろしさです。そして「気のせい」として無視し続けることで、からだ自体の多くの可能性が失われ、からだ自体が発する多くの危険信号を見逃すわけです。その危険信号とは、自分自身の心身の不調かもしれませんし、目の前の人の内奥の悲鳴かもしれませんし、自然それ自体の限界かもしれません。
現代を生きる私たちの思考では「気のせい」とすら自覚できないこれが、「からだ自体」の直観ということです。
そしてこの<からだ自体>の直観は、「間(あいだ)」で起こります。
もう一度、真理の図解を見てみましょう。
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私は図中の<からだ自体>を少し透明にしています。なぜなら<からだ自体>は見えないからです。
透明にしている理由がもうひとつあります。
からだ自体は、「個」を超えます。
そもそも「個人」という概念は、「概念」でしかありません。現象界で客体として現れる「私」という自我と、「目に見える身体」。それゆえに、「個人」という概念が想定されます。
しかしからだ自体は、概念を超え、「個」を超える。つまり、からだ自体が持つ直観は、私と生徒の「間」で起こるのです。
「人間(にんげん)」という言葉を考えてみましょう。
人間という漢字は、「人の間(あいだ)」と書きます。
私は、日本人はそもそも「からだ自体」の使い手だったのだろうなと勝手にに思うわけです。
だって私たち日本人は、人間を「人の間(あいだ)」と書くわけです。つまり、人間存在の本質が、個人ではなくその「間(あいだ)」にあったことを見抜いていたわけです。
そう、「人間」という漢字が示すように、私たちの人間本質(つまり、からだ自体)は個を超え、からだ自体が司る直観は個と個の「間(あいだ)」で起こるのです。
からだ自体の直観を自覚したら、どうする?
さて、こうしたからだ自体の直観を感じた時、どうすればいいのでしょうか。
私はこうした直観を自覚したとき、からだ自体に「委ねる勇気」を持つように心がけています。
昨日、その生徒にどのように語りかけたかは、あまり覚えていません。
とりあえずこの、「なんか、ある…」に私は意識を向けます。
私は、この私と生徒の間になるからだ自体の直観を、言葉によって代弁しようとします。
思考でわかった気になって、からだ自体の直観をかき消すのではありません。思考を使って、思考を従属させて、からだ自体の直観を代弁するのです。
例えば、「サボっちゃうと自分責めちゃうよなぁ…」とつぶやいた気がします(あまり覚えてないですが)
これは本当につぶやきです。「私」が「生徒」に語りかけているわけではありません。「私」と「生徒」の間に起こる、「なんか、ある…」という直観を、言葉で代弁してみるのです。
「サボっちゃうと、自分責めちゃうよなぁ…」
「ぶっちゃけさ、正月ぐらい遊びたいよね」
「まあ、みんなそうだからね」
実際に昨日なんて言ったのかはあまり覚えていませんが、こんな言葉を私はツラツラとつぶやいていたように思います。
この時、「この子をもっと元気にさせよう」とか、「もっとやる気にさせよう」といった意思はあまりありません。
もちろん、生徒にはできる限り学習時間を増やして、学習の質を上げてほしいという表面的な(現象界的な)意思はあります。
しかしですね、それ以上に、この「私」と「生徒」の間で起こる、「なんか、ある…」という<からだ自体>が持つ直観が、それ自体によって展開していくように、少しばかり助力するわけです。
大切なことなので、もう一度。
からだ自体は、私たちの意思を超えて、自らで展開していきます。(言っていること、わかります?汗)
私はこのからだ自体の持つ意思を超えた図らいを<意図>と呼んで、「意思(もしくは意志)」とは区別しています。
意思は非常に人為的であり、能動的です。
一方で<からだ自体>の意図はもっと、スススーっと、自らで自らの流れに乗って進んでいく何かです。
哲学者の西田幾多郎や、心理療法の一つであるフォーカシングの創設者であるジェンドリンは、こうした<からだ自体>が持つ意図を、"implicit"という言葉で表現しているように思います。
"implicit"とは、「暗黙の」とか「潜在的な」といった意味です。
そう、からだ自体が持つ<意図>とは、暗黙の、現象界からは隠された<意図>なのです。(からだ自体が見えないように、意図も思考では捉えられないというわけですね)
こうした<からだ自体>の意図は、能動的というより受動的です。ただし、完全なる受け身というわけでもありません。能動と受動の間、「中動的」と言えるかもしれません。(「真理の図解」と「中動態」の関係についても結構面白いので、また今度解説します)
つまりですね、からだ自体は、それ自身で<意図>を持っています。そしてそれは、私たちの「意思」を超えています。
からだ自体の<意図>と、思考で作られた自我による「意思」。
<からだ自体>に委ねるというのはつまり、からだ自体の<意図>がそれ自身で展開することを許し、その展開を促すために「意思」を使うということです。
からだ自体が持つ直観としての<意図>が、それ自体として展開してくために、思考によって作られた「自我としての私」の意思を活用するわけです。
大半の現代人は、これが逆になっています。
つまり、からだ自体の<意図>をかき消すために、「意思」を使うわけですね。
「こんなの気のせいだ」
「ぜんぜん問題ない」
「そんなこと言っている暇はない」
「さっさと結果を、結果をぉおおお、結果を出すのだぁああああ!!!」
といった感じで、思考による意思を使って、からだ自体の意図の声をかき消すわけです。
私の考えから言うと、これは必ずいつの日か、<からだ自体>による反動がやってきます。
それは数ヶ月後かもしれませんし、数年後かもしれません。もっともっと先かもしれない。あなたではなくあなたの子供や孫が、世代を超えてその影響を被るかもしれません。(これが心理学で「家系のトラウマ」として記述されるものです)
この発想からわかるように、「真理の図解」のからだ自体が存在する<存在界>は、仏教で言うところのアーラヤ織にあたります。
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アーラヤ識(阿頼耶識)唯識思想で重要な概念の一つで、「蔵識」とも呼ばれます。
あらゆる経験や行為の結果(種子)が蓄積される場所であり、個人の業や心の基盤を形成します。
簡単に言えば、「潜在意識」や「無意識」に近い性質を持ち、すべての経験がここに蓄積され、未来の行動や経験に影響を与えるとされます。
(潜在意識や無意識とはちょっと違う気もしますが、まあ参考程度に)
要は存在界は「縁起」や「因果応報」を司る領域であり、キリスト教で言うと「罪」や「罰」を司る領域です。
これは集団レベルでも起こります。国や、人類、地球レベルでも、大きな<からだ自体>の集合としての大きなうねり、流れのようなものがあります。(こうしたものを心理学者のユングは「集合的無意識の元型」として描き出そうとしたのだと思います)
それはまるで海の潮流のような大きな流れが、家系、組織、国家、人類、地球社会単位で存在していると言えると思います。(そうした意味からも「真理の図解」で海を例えとして使うと色々わかりやすいのです)
直観を使って、結局その生徒はどうなったのか?
昨日は結局、こうした「なんか、ある…」という<からだ自体>の直観的意図を無視せずに、それに委ねていったわけですね。
結果、生徒から自ら、勉強をサボったことに対する自責の念に囚われていたことをつらつらと話し始めました。
その後、対話をすることで、私が感じた「なんか、ある…」という直観的違和感は徐々に無くなっていきました。
生徒の内側に収縮していくような様子も、最後はだいぶ外側にハツラツと開いていく感じに変わってレッスンを終えられました。
ただですね、<からだ自体>の直観を使ったコミュニケーションは、必ず優しいコミュニケーションになる、というわけではないです。
私は過去、他の生徒のレッスン時に、直観的に「あぁ、グッと向き合わないとだな」ってふと感じることがありました。
このときも思考だと結構、理解不能です。それなりに生徒は頑張っているように見える。しかも思考で考えると私だって人間なので生徒に嫌われるのはもちろん怖いし、嫌です。
けど、それにも関わらず、向き合わないといけない、という感覚がある。
そうここでも、「それにも関わらず」、なのです。この言葉こそが、思考を超え出て、直観に委ねる契機なのです。
そういう時も、できる限り委ねる勇気を持って、からだ自体の意図に従う方向に意思を使います。
方向を決めるのは<意図>。そこに向かうために使うのが「意思」です。
結果その時は、昨日のレッスンのコミュニケーションとは全然違いました。かなり厳しめに、客観的に見ると「叱っている」ように見えるようなコミュニケーションだったと思います。
けど、それは、決して感情的ではありません。でももちろん、冷酷ということもありません。
スススーーーー、って感じです。スススーーーーー
擬音が多くてすみません(汗)私、擬音多めなんですよね
でも、からだ自体の意図は本当にスススーーーー、という感じ。
それは感情的ではありません。
もちろん、感情も動きます。人間なので。けどそれは、からだ自体そのものが持つものではなく、<からだ自体>の直観が現象界に堕ちた時、私たちの自我としての思考が絡まった時、感情が動くのだと私は今のところ考えています。
(書いてて思ったのですが、存在界から受け取る<純粋直観>が、「身体//自我」の一部として現象界に堕ちて思考と絡まったときに「感情」となるのかもです。この辺はまた今度考察したいと思います)
結果、その厳しめなコミュニケーションをとった生徒はどうなったかというと、レッスン翌日に、「できない自分に怖くて向き合えていなかったこと」を自覚してくれました。そして、自分の弱さを素直に認められることでスッキリと学習に向かえるようになったのです。
けど別に、「できない自分にちゃんと向き合え」という意思は私にはないんですよね。
スススーーーと、からだ自体の意図がそれ自体で展開する。私とその生徒の間で起こる。それこそ暗黙的な人間的直観の自己展開です。
で、ですね。
勇気を持って、言い切りましょう。
<からだ自体>の意図は、決して間違うことがありません。
なぜなら、からだ自体がある存在界、存在それ自体は、「永遠の必然」です。そこでは私たちが現象界で想定している「自由意志」なるものは通用しません。そしてこれこそが、<真なる自由>であり、そこでは「間違う」という概念は意味すら持てません。
「私たちがある事柄を永遠の視点から考察するならば、その事柄を原因の連鎖から解放し、自然全体の秩序とつながりにおいて理解する。」
「自由とは、必然性を理解することである。」
(これについてもまた別の機会で…)
とにかく、私はこうしたからだ自体から得られる直観を時に英語のレッスンで活用しています。
そしてこのからだ自体の直観は、他にも色々なところで活用できると思ってます。
教育現場、職場でのコミュニケーション、経営の意思決定、組織のカルチャー作り、自分の人生を内省する時、などなど。
<からだ自体>こそ、<真なる自己>であり<いのちある自己>です。
生徒たちはもちろん、多くの人がこうした<からだ自体>の持つ直観、可能性、神秘に自覚的に生きていってほしいなと思っています。(私も含めて)
そして、<からだ自体>に委ねる勇気を持てること。
なぜなら、<からだ自体>の集合が、<生命それ自体>であり、それは対象化されていないありのままの<地球社会それ自体>でもあります。
一人ひとりが<からだ自体>に還れた時、だれもなにもモノ化されない、本当の意味で地球と共生できる、<人間それ自体>に我々は向かっていけると、私は結構本気で信じてます。
ビジョンは壮大ですが、やることは小さく、とりあえずこうしてnoteに綴ると・・・
まとめ
からだ自体は直観を司る
からだ自体は「個」を超え、直観は間(あいだ)で起こる
からだ自体はそれ自体が隠れた<意図>を持ち、自ら展開していく
からだ自体の<意図>に委ねられる小さな勇気を持ち、<意図>のために「意思」を使うことが大切(これが逆になると、いつの日か<意図>による揺り戻しが起こる)
からだ自体の意図は、間違うことがない(というか、存在界では「間違う」という言葉の意味が通用しない)
こんな長くてわかりづらい文章を、最後までお読みいただき、ありがとうございました!🙇🙇🙇
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