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非理法権天【トリビア雑学・豆知識】
「非理法権天」は近世日本の法観念を象徴する法諺であり、その言葉が表す意義や歴史的背景には深い意味が込められている。
非といふは、無理の事なり、
理といふは、道理の事なり、
法といふは、法式なり、
権といふは、権威なり、
天といふは、天道なり。
非は理に勝つことならず。理は法に勝つことならず。法は権に勝つことならず。権は天に勝つことならぬなり。此五つを能く辨ふべし。
非は理に屈し、理は法に屈する。
法は権力にねじ曲げられ、権力もまた天の采配には敵わない。無理や非道は道理の前に敗れ去り、どれほど正論であっても法の下では力を失うことがある。だが、その法すらも権力者の思惑次第で変わることがあるのだ。それでも、最終的に権力者の判断もまた天の裁きに委ねられるべきだろう。
意義とその背景
江戸時代中期の故実家伊勢貞丈が遺した『貞丈家訓』には、「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」と、非理法権天の意味が端的に述べられている。これを解釈すると、次のように階層的な概念が浮かび上がる:
非(ひ):道理に反すること、不条理な事象
理(り):人々が認める道義的な基準
法(ほう):明文化された法律や規範
権(けん):権力者の持つ威光や権威
天(てん):全てを超越する「天の意思」
この階層構造は、儒教思想の影響を色濃く受けており、権力者が制定する法が道理を超越するという現実主義的な価値観を反映している。
中世法観念との対比
「非理法権天」という概念は、特に中世日本の法観念と対比されることでその意義が際立つ。中世では「道理」が最も重視されており、「法」はその道理を体現するものであった。このため、権力者も道理に従わなければならず、法は権力者の都合で作られるものではなかった。しかし近世に入ると、権力者が法を定め、それが道理を凌駕するという価値観が成立した。まさにこの変化を、「非理法権天」という言葉が象徴している。
シンボルとしての非理法権天
歴史的な逸話として、南北朝時代の武将楠木正成が「非理法権天」の文字が入った菊水旗を掲げたという伝説がある。しかし、瀧川政次郎らの考証により、これは江戸時代に作られた創作であることが判明している。ただし、この伝説が楠木正成に結びつけられたことで、「天」を天子、すなわち天皇と解釈する尊皇思想が一部で形成された。
さらに、太平洋戦争前には海軍大学校の講義題材としても用いられ、寺本武治教官によって「非理法権天の五段弁証法」として教えられた。戦争末期の天一号作戦では、戦艦大和に「非理法権天」と記された幟が掲げられたとされ、象徴的な意味を持つ言葉として認識されていた。
「非理法権天」は、単なる言葉以上に、時代ごとの法観念や思想、さらには権力と道徳の関係性を考える上で重要な指針を示している。