天正遣欧使節(1999/1/1)/松田毅一【読書ノート】
1579年のこと、宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは遠いイタリアの地を旅立ち、日本の海岸に足を踏み入れました。彼が到着したのは、伝説のフランシスコ・ザビエルが日本を訪れてから既に30年が経過した後のことでした。宣教師たちの福音の種は、この異国の地に既に播かれ、そこここで芽吹き始めていたのです。
しかし、ヴァリニャーノはやがて、日本という国が外からの情報とはかけ離れた独自の文化と固有の信仰を守る壁を持っていることに気づきます。彼はある日、日本のキリシタン大名を訪ねると、そこで耳にしたのは厳しい言葉でした。宣教師たちは礼を欠き、日本人に対する敬意に欠けると非難されたのです。神社や仏閣を破壊したのも、本意ではなく、彼らが強いられたことだと主張されました。ヴァリニャーノは、彼らが日本の習慣や美徳を学ぶ努力を怠っていたとの指摘を受け、深く思索するのでした。
彼の考えは、もし宣教師たちが日本人の文化と礼儀を尊重し、学ぼうとする姿勢を見せなければ、彼らの信仰を受け入れることはないだろうというものでした。日本の風習に対する無知は、宣教師たちの失礼と侮辱とみなされ、彼らの信教を拒絶する一因となっているのです。
そんな中、ヴァリニャーノは新たな計画を思い描きます。日本人の若者たちを西洋へ派遣し、キリスト教の栄光と洗練された文化を見せつけることで、東西の橋渡しとなることを目論んだのです。そうして選ばれたのは、
伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンの四名の少年たち(十三、四歳くらい)。彼らは、その若さにもかかわらず、壮大なる旅立ちを果たしました。
少年たちが出かける際に、いつも一人の司祭と一人の修道士が同伴しました。司祭館(カーザ)に住まわせるようにしました。ドイツ学院や神学校(セミナリオ)には、訪れたとしても住まわせてならないようにしました。 これは、少年たちが教育を受け、ヨーロッパのキリスト教社会を高く評価し帰国することが重要であるためです。
彼らを道から踏み外させるような者たちとの交流を禁じ、秩序に反する話を彼らに聞かせないようにしました。
使節の行動を細かく監視したグアルティエーリは、少年たちが不適切なものに接触しないよう「常に最大限の注意」を払っていたと述べています。
しばしば、少年たちが不穏な事柄に触れた場合、「聖なる偽り(サントインガンノ)」を用いて即座に良い解釈を与え、不健全な考えを取り除くよう努力しました。これは、日本のキリスト教徒たちに害を及ぼすことを避け、使節の派遣目的に逆らうような結果を防ぐためです。
かつて、少年遣欧使節団の首席として栄誉を受けた伊東マンショは、その生涯の晩年4年間を、司祭として慎ましやかに日本のキリスト教界に尽くされたそうです。欧州の地を踏まず、日本に留まった同僚たちとの生涯は、大差ないものだったと言います。
一方で、遙か異国の地を歩んだ千々石ミゲルは、帰国後に信仰を捨て、悲惨な晩年を送ったと伝えられています。才能に溢れ、将来を嘱望された原マルチノもまた、運命のいたずらにより国外へと追放され、帰国することなく異国の土に眠ることとなりました。
特に心を打つのは中浦ジュリアンの物語です。彼は若き日にローマでの感動を胸に刻み、その後も宣教師としての道をひたむきに歩み、母国との激しい闘争の中で殉教を遂げられました。彼の晩年は、日本におけるキリスト教への弾圧という、厳しい闘争に費やされたのです。
そして、彼らの物語に暗い影を落とす出来事があります。幕府の役人によって考案された残酷な拷問が、中浦ジュリアンたちに加えられたのです。長時間に及ぶ拷問の末、日本イエズス会の最高位のクリストヴァン・フェレイラは、棄教の合図として手を振りました。この最高位の人物の背教は、幕府に勝利をもたらしたと言えるでしょう。
しかし、中浦ジュリアンは拷問に耐え抜き、幾度となく繰り返される穴吊りの拷問にも屈せず、最後は殉教という形で生涯を閉じられました。天正遣欧使節団が長崎を船出してから50年の歳月が流れた後のことでした。彼らの物語は、東西交流史において一つの大きな節として記憶され、中浦ジュリアンの偉大な殉教とともに、その幕を閉じたのです。