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神の数学(2023/04/03)/MAHANANDA@ジェームス・スキナー【読書ノート】

人間の意識とは何か?なぜ宗教が必要なのか?死とは何か?
これらの哲学的な問いに対する確かな答えがここにあります。
人間の意識とは何か。死とは何か。この一冊は、多くの人の苦しみを解き、幸福へと導くヒントを提供しています。科学だけでは解決できることは限られています。幸せに生きるためには、精神世界と宗教の両方も必要。
精神世界や宗教が、人間社会にとって欠かせない ものであることを確信するに至ったのは、科学だけ解決できることは限られていると知ってからだった。自分の人生・意義、死についてなど深く考える必要のある哲学的な問いに、科学は沈黙する。
科学・工学・数学・理論などの客観的な道具箱と、宗教・神話・芸術・感性の主観的な道具箱は、両方使わなければ問の答えは得られない。
しかし、現代の多くの人々は、どちらか片方しか使えていない。
そのために多くの人が悩み、苦しみ、人生に意義を見つけられなく、生き方に迷い、幸せを感じられない。本書にはそんな人々の苦しみを解き、幸福へと導かれるヒントがあります。

自分が本書を読もうと思ったのは、読書のすすめ:清水克衛さんのYouTube動画を拝見したことがきっかけです。
※この動画では三冊セットをおすすめしています。


【清水店長の解説動画付!】読書のすすめオリジナル「神と仏の数学」3冊セットのご案内

  1. 神の数学:この本は、宇宙の秩序や人間の存在に関する深い洞察を提供し、現代人が忘れがちな「主観的な箱」と「客観的な箱」のバランスについて語っています。著者は、現代人が客観的な箱に過度に依存していると指摘し、心の開放と拡大の重要性を強調しています。

  2. 最新科学で読み解いた仏教の教え & 南無妙法蓮華経:これらの本は、仏教の教えを最新の科学、特に量子力学の観点から解釈しています。これにより、仏教の教えが現代科学とどのように関連しているかを示し、より深い理解を促進します。

  3. たわごとレジデンス:この小説は、老人介護施設が併設された高級マンションでの人間関係を描いています。登場人物たちは、物質的なものに囚われ、苦しんでいる様子が描かれ、心の解放というテーマを探求しています。

これらの本がどのようにして読者の心を解放し、新しい視点を提供するかについて詳しく語られています。また、読者がこれらの本を通じて、自分自身や世界に対する新たな理解を深めることができると強調されています。

人間が幸せに生きるためには客観的な道具箱と主観的な道具箱の2つを使う必要があることを説明。
お金持ちと貧乏人の違い: 人生は線ではなく点の連続であり、人生の選択権は自分にある。
「中」の世界を完成させる: 人間には外の世界と中の世界があり、幸せになるためには中の世界を変える努力が重要である。
人生は線ではなく点である: 人生を線として捉えることの問題点を指摘し、人生は点の連続である。
松下幸之助はなぜ偉人になったのか: 偉人になるためには崇高な目的を持ち、他人の力を借りることが重要である。
人間を定義する「4つの元型」: 戦士、恋人、魔法使い、王族という4つの元型を理解し、それぞれを磨くことの重要性。
4つの元型は全てを磨く必要がある: 4つの元型をバランスよく磨くことの重要性と、それぞれの元型のレベルを測定するためのチェックポイント。
自分の言葉で無意識に命令をする: 無意識は強い力を持ち、自分が発した言葉によって行動が変わる。
才能を言い訳にしてはいけない: 才能ではなく努力が重要であること、努力を続けることの重要性。
幸福への近道「最小主義」: 過去の執着を断ち切り、最小主義になることで、理想の自分に近づけるようになる。
最後に: 人間の苦しみは未来のことに気を取られることから生まれるとし、今に集中し、4つの原型を磨き続けることで幸せになれると結論付ける。

「神の数学」重要ポイント

  1. 宗教とスピリチュアルの重要性:現代社会において、科学的思考だけでは人生の深い問いに答えることができないため、宗教やスピリチュアルな考え方が重要。科学は「何をどうすればできるか」という具体的な問題解決には適しているが、「なぜそれをするのか」という根本的な問いには答えられないため、宗教やスピリチュアルがその役割を果たす。

  2. 科学と宗教のバランス:科学的思考と宗教的思考のバランスが重要。どちらか一方だけに偏ることなく、両方の視点を持つことで、より豊かな人生観を持つことができる。

  3. 新しい挑戦の重要性:自分の安心領域から出て、未知の世界に挑戦することの重要性。新しい考え方や生き方に挑戦することで、自分自身の可能性を広げ、人生を豊かにすることができる。

  4. 人生の目的:単に楽をすることではなく、自分の人生を最大限に生きることが目的。この考え方は、人々がより積極的に人生に取り組むことを促す。

はじめに

第1章:宇宙最大の謎、人間の「意識」

脳は情報を省略している

あなたが見ている世界は本当に存在しているのか

世界には陽子と中性子と電子しかない。あとは空間。実は99%は空間である。これを場と言う。
我々は電子信号を受け取っているだけで、その解釈(認知・認識)はすべて脳でなされる。

あなたの身体は、あなたではない

私たちは、大きな力を持っている

私たちの脳はいろいろな周波数で共鳴することができる。
私たちは実は日常的に使っている能力よりもはるかに大きな力を持っている。これはまず間違いない。自分のアクセスできるポテンシャルにほとんどアクセスしきれていないのだ。

見えていない世界を信じない愚

アブラハム・マズロー:「私は間違っていました。自己実現では不十分でした。その先に自己超越が必要になるのです。」⇒神の領域
なぜイーロンマスクは目標に向き合えているのか?それは自分よりも崇高な力に頼り始めたからである。自分の力に頼っているのではなく、より大きなな何かしらの大きな力に頼って生きることを選んだのである。

第2章:記憶の罠から脱出する

世界は、イリュージョン(幻想)である

仏教では目に見える世界は存在しないという。
アインシュタインが教えたのは、光の最小単位は1光子ということ。エネルギーがある一定のエネルギーになると1光子が放たれて、またエネルギーが高まってまた1光子が放たれる。これが矢継ぎ早に来る。 だから一定の周波数で光が点滅しているのである。なのになぜ継続しているように見えるのか?それが記憶の作業なのだ。


光の最小単位は「光子(フォトン)」と呼ばれます。光子は電磁波の波長で決められるエネルギーの最小単位であり、波長が短くなればなるほど、一つ一つの光子のエネルギーが大きくなるのが特徴です。
光が一定の周波数で点滅しているというのは、光が粒子(光子)として振る舞うという量子力学の考え方から来ています。光子は一定のエネルギーを持ち、そのエネルギーは光の周波数に比例します。したがって、光が一定の周波数で点滅するとは、一定のエネルギーを持つ光子が一定の間隔で放出されるということを意味します。
しかし、私たちが光を見るとき、それは連続的に見えます。これは「記憶の作業」、つまり私たちの脳が情報を一時的に保持し操作する能力によるものです。光子が矢継ぎ早に放出されると、それらはほとんど同時に見え、結果として光は連続的に見えるのです。この現象は、私たちの脳が情報を一時的に保持し、それを連続的な経験として解釈する能力、つまり「作業記憶」によるものです534。この作業記憶の能力により、私たちは世界を連続的で一貫したものとして認識することができます。

大金持ちと貧乏人のたったこれだけの差

私たちは存在しているところに注目するが、実はもっと注目すべき面白いところがあるのだ。それが点滅と点滅の間のスペースである。この点滅のスペースに何が存在しているのか?これこそが無限の可能性の場なのだ。 量子力学の教えによると、現実はすべて一つの無限の可能性の場として存在している。つまりこういうことである。次の瞬間に、どの可能性でも表すことができる、ということなのだ。

私たちはこの瞬間からスタートする無限のストーリーを選ぶことができる。そのストーリーを棚から降ろし、読み始めることができる。そして次の瞬間には、私たちの前にあるのは、また無限のストーリーの選択肢がある。
大金持ちと貧乏人とが、それぞれ朝6時に目を覚ましたとする。この2人の隔たりの違いとはなんなのか?
「自分は大金持ちと覚えているか?貧乏人だと覚えているか?」
その差でしかない。一言で言えば記憶にすぎない。
私たちはみなこの「記憶の罠」にハマっている。私たちは記憶によって生活の中に、持続性・継続性を創り出し、その継続性・持続性にしがみついているだけなのである。したがって、私たちが人生を大きく変えようと思うのなら この継続性を大きく断ち切る必要がある

人生の捉え方: お金持ちと貧乏人の主な違いは、人生をどのように捉え、どのように生きるかにあります。お金持ちの人々は、自分の人生に対して積極的な選択をし、自分の状況を自らの手で変えることができると信じています。一方、貧乏人はしばしば、自分の状況を変えることができないと感じ、運命や外部の状況に左右されると考えがちです。
瞬間の連続: 人生は線ではなく、瞬間の連続であるという考え方を強調します。お金持ちの人々は、各瞬間を新たな機会と捉え、常に前進しようとします。一方で、貧乏人は過去の経験や現在の状況に囚われがちで、変化を恐れる傾向があります。
自己決定の力: お金持ちの人々は、自分の人生の選択権が自分にあるという自覚が強く、自分の未来を自分で決定することができると信じています。これに対して、貧乏人はしばしば、自分の人生が外部の力によって決定されると感じ、自己決定の力が低いと感じることが多いです。
お金持ちになるための秘訣は、単にお金を稼ぐ方法を知ることだけではなく、自分の人生を自分でコントロールし、積極的に良い選択をすることにあるとされています。この考え方は、自己実現とポジティブな思考の重要性を強調しています。

自分の安心領域の外に出よ

安心領域というのは記憶によって出来ている。
ある心理実験:
恐怖に感じているもの、避けようとしているもの、苦手なものには少しずつ近づいて慣れることで、乗り越えて生きるようになった……
と思われたが、じっさいには、慣れたというより勇敢になったということだった。恐怖が消えたのえはなく勇気が芽生えたのである。

人生はあなたの要求に応えてくれる

著者の高所恐怖症克服体験:スカイダイビングは飛ぶまでが怖い
普通に生きた人の墓石に刻まれた言葉:彼は人生を送を要求しなかった。 人生は彼の要求に応えた。

人生の目的はラクになることではない

退職金を年金をもらい、静かにひっそりと暮らす。そして、平均年齢84.5歳で「とくに振り返りたいことはなかった」と言ってこの世を去る。 これが本当にあなたの望む人生なのか。もっと冒険がある、いろんなことが起こる人生望んでいるということはないのか。ここでハッキリ言っておきたい人生で何も起きたことがない老人ほどくだらないものは世の中にない。実際、こういう人たちが、人々の新しい可能性の芽を摘むのだ。 若者の子供達の成長や夢を阻んで行くのである。

どうして自分をそれほど小さく見せるのか

仏教の教えによれば、私たちが目にする現実は幻である。目に見えるものは実在しないというこの考えは、私たちにとって不思議であり、同時に解放感を与える。しかし、その一方で私たちは安心を求め、新しいことに対して恐怖を感じる。家が炎に包まれ、職を失ったとき、私たちは人生が終わったかのように感じる。だが、悟りを開いた人々は、これらの出来事に対して動じない。彼らは、私たちが何も失っていないことを知っている。
興味深いことに、仏教の聖人たちは私たちを特別な目で見ている。彼らは私たちの恐怖を見透かしているわけではない。私たちがいかに小さく振る舞っているか、ただ不思議に思っているのだ。彼らの目には、私たちは神のように見える。私たちは神の子であり、その力を持っているが、それを忘れがちになる。
キリスト教の隠れた教典にも似たような言葉がある。「かつて神があったように、人間が存在する。神が現在いるように、人間もまた存在する」というこれらの言葉は、人間が神の子であること、つまり神になりうる可能性を秘めていることを教えている。しかし、私たちは目に見えるものだけを信じ、本来の力を信じないでいる。
この静かな森の中で、私は自らの小さな恐れを超え、自分自身の神聖さを認識する。私たち一人一人には、目には見えないが、計り知れない力が宿っているのだ。

「中」の世界をまずは完成させなければならない

「中の世界」とは、個人の内面世界、つまり自分の感情、思考、価値観、信念などの精神的な側面を指します。
重要性: この内面世界は、自分自身の感じ方や考え方、反応の仕方を形成し、外界に対する個人の体験を大きく影響します。
「中の世界」の役割
自己認識
: 自分の感情や思考を理解し、自己認識を深めることで、自分自身との関係を強化します。
感情の処理: 自分の感情を適切に処理し、ストレスや否定的な感情を管理する能力を高めます。
価値観の形成: 個人の価値観や信念が形成され、これが行動や決断の基盤となります。
精神的な成長: 内面世界を理解し、育てることで、精神的な成熟と成長を促進します。

・「中の世界」の変化の重要性
コントロール
: 外の世界(他人や外部環境)をコントロールすることは難しいが、中の世界は自分の意志で変えることができます。
幸福への影響: 自分の内面世界をポジティブに変えることで、幸福感や満足度を高めることができます。
自己実現: 自分の中の世界を理解し、育てることで、より自己実現に近づくことができます。
「中の世界」は、自分自身の内面を理解し、育てることで、より充実した人生を送るための重要な要素です。外界の出来事や他人の行動に振り回されるのではなく、自分の内面をコントロールし、ポジティブな変化をもたらすことが、幸福への鍵となります。

人生は旅だと思っている人の多さ

人生を旅に例える人は多いが、その考えは根本的な誤解に基づいている。なぜなら、人生には特定の「目的地」が存在しないからだ。多くの人は、幸せや人生の意義を将来の出来事に見出そうとし、いくつかのライフイベントを幸福へのキーとみなしている。例えば、良い学校に入ること、優れた企業に就職すること、結婚すること、昇進すること、そして退職することなどがそれにあたる。しかし、これは大きな間違いである。なぜなら、幸せは将来にあるわけではなく、実際には「将来」という概念自体が存在しないからだ。
未来への旅を経験したことがある人はいない。明日、来週、来月、来年への旅は不可能である。現実には、私たちは常に「今」に存在している。そして、明日が来ても、それは単に新しい「今」に過ぎない。
人生を音楽やダンスに例えてみると、その意味がより明確になる。音楽には特定の目的地は存在しない。音楽を聴く喜びは、各音符、各瞬間に存在する。音楽が特定の目的地に向かっているわけではない。ダンスも同様で、踊りに目的地はない。踊ること自体が目的であり、その瞬間に喜びが存在する。したがって、人生にも特定の「目的地」はない。私たちはすでに人生の目的地にいる。「今」こそがその場所である。人生において「今」以外に目的地は存在せず、私たちが現在いるこの瞬間こそが、まさに人生の真髄なのだ。

ヨーガ哲学の教典「ヨーガ・スートラ」について、こんな神話がある。
インドのリシ(仙人)たちがあるとき、神様のところに文句を言いに行った。インドの神様は3つある。創造の神様、ブラフマー。保持の神様、ヴィシュヌ。そして、破壊の神様で変化をもたらしてくれるシヴァ。リシたちが訪問したのは、シヴァ神のもとだった。
「神様、アーユルヴェーダを与えてくださることによって、人間の身体の悩みはすべて解決されました」
アーユルヴェーダとは、健康法である。
「しかし、身体の問題は解決されましたが、精神の苦しみが多分に残っています。これをなんとかしてください」
シヴァ神は言った。
「わかりました。では、パタンジャリを遣わして、ヨガを教えてもらいましょう」
パタンジャリとは、下の身体が蛇の形になっていて、上が人間になっている。日本を含めた西洋では、ヨガは健康法だと思われているがそれは違う。健康法はアーユルヴェーダで先に解決しなければならないのだ。ヨーガ・スートラは、世界最初の精神衛生の教科書なのである。
そして、その最初の1節、サマディパダには、こう書かれている。
「atha yoga anushasanam(アタヨガアヌシャサナム)」この「atha」とは「now」の意である。日本語では「今」だ。「今」という言葉がわかっていれば、ヨガの哲学を理解していることになる。ここでも「今」なのだ。
こういうことである。自分の幸せは将来には見出せない。
「今」にいながら、恐怖を抱くことはできるだろうか。答えはノーだ。できないのだ。恐怖は、将来に行かなければ起こらない。将来を考えるから、恐怖になるのだ。明日はどうなるのだろう。来月は生きていけるのか。資金繰りはどうなるか。夫婦関係は大丈夫か。会社はつぶれないか。子どもは学校に入れるか。老後のお金は大丈夫か。病気にならないか……。先のことを考えるから、恐怖は生まれる。
あなたは3ヵ月後の痛みも、3年後の痛みも、30年後の痛みも、一生涯の痛みをすべて、今日に感じようとしている。これもまた、罠である。マインドの罠だ。イエス・キリストも同じことを言っている。
「明日、何を着、何を食べるのか、思いわずらうなかれ。野原のユリを思い見よ。彼らは労することもなく、つむぐこともなく、倉に収まることはない。けれども、歴史上、最も大金持ちだったソロモン王でさえ、最も興隆していたときに、このユリの花の一輪に、その装いはかなわなかった。あなたはこの一輪のユリの花くらい、美しくあることができるのか」あなたに問われているのは、将来ではない。「今」なのである。

・「人生は線ではなく点である」とは?
この表現は、人生をどのように捉えるかという視点に関するものです。多くの人は人生を一つの連続した線として捉えがちですが、この概念は人生を独立した瞬間の連続、つまり「点」の集合体として捉えることを提案しています。
この考え方の重要性
瞬間ごとの新たな始まり
: 人生を点の連続と捉えることで、過去の出来事や現在の状況に縛られず、各瞬間を新たな始まりとして捉えることができます。これにより、過去の失敗や現在の状況に囚われることなく、常に前進し続けることが可能になります。
自由な選択: 各瞬間が独立しているという視点は、人生における選択の自由を強調します。過去の自分や現在の状況に縛られることなく、次の瞬間にどのような選択をするかは自分自身で決めることができます。
未来への不安の軽減: 人生を線として捉えると、未来に対する不安や恐れが大きくなりがちです。しかし、点として捉えることで、未来への不安を一つ一つの瞬間に分解し、扱いやすくすることができます。
現在の価値の強調: この視点は、現在の瞬間に集中することの重要性を強調します。過去や未来に囚われることなく、現在の瞬間に最善を尽くすことが、最終的にはより良い未来を作ることにつながります。

「人生は線ではなく点である」という考え方は、過去や未来に対する固定観念から解放され、現在の瞬間に意識を集中させることの重要性を教えてくれます。この視点は、人生におけるストレスや不安を軽減し、より積極的で自由な生き方を促進するための有効なアプローチと言えるでしょう。

第3章:なぜ、宗教が必要なのか

客観的な道具箱、主観的な道具箱

「客観的な道具箱」と「主観的な道具箱」の二つを理解し、バランスよく使うことが重要。

客観的な道具箱
科学、工学、数学、理論などに基づいた、具体的で測定可能な知識や技術を含む。この道具箱には、物理的な世界を理解し操作するためのツールや理論が含まれる。例えば、科学的な方法、数学的な公式、技術的なスキルなどがこれに該当し現実世界での問題解決、技術的な創造、実用的な応用などに役立つ。
主観的な道具箱
宗教、神話、芸術、感性など、より感情的、精神的、哲学的な要素を含むもの。個人の内面世界、感情、価値観、信念、創造性などが含まれ、例えば、宗教的な信仰、芸術的な表現、個人的な経験に基づく直感などがこれに該当する。また自己理解、感情の処理、精神的な成長、創造的なインスピレーションなどに役立つ。

バランスの重要性
相補性
: これら二つの道具箱は相補的な関係にあり客観的な道具箱だけに頼ると、技術的な能力は高まるものの、精神的な充足感や創造性が欠ける可能性がある。逆に、主観的な道具箱だけに頼ると、内面世界は豊かになるかもしれないが、現実世界での具体的な成果を出すことが難しくなる。
統合の必要性: 真の幸福や充実した人生を実現するためには、これら二つの道具箱をバランスよく統合し、適切に使い分けることが重要。客観的な道具箱で現実世界を効果的に扱い、主観的な道具箱で内面世界を豊かにすることで、より充実した人生を送ることができる。
この考え方は、現代人がしばしば片方の道具箱に過度に依存する傾向があることを指摘し、両方の道具箱をバランスよく使うことで、人生の様々な側面での成長と幸福を促進することを目指す。

道具箱の使い方を間違える人たち

必要なのは、「包括的叡智」である

目の前に、たくさんのダイヤモンドが落ちている

「すると、どうなる?」で考えてみる

もし、人間に儀式的なものがなかったなら

3大宗教は、何を目的としているか

第4章:神様の実在は証明することができる

便利なフィクション

お金は便利なフィクション

フィクションを見下してはならない

この日本というもののために一緒に頑張ろう。この会社のために一緒に頑張ろう。同じ宗教の信者なんだから、ここで協力しよう。このお金のために働いてくれ……
では、フィクションがなければどうなるか。日本人同士はどうやって絆を作るのか? 私たちは一人ひとり深く知り合って信用を蓄積してからでなければ協力できなくなるのではないか。
しかし、便利なフィクションがあれば、一瞬でつながれる。便利なフィクションであればこそ、私たちは効率よく世界というものを組むことができる。だから、決してフィクションを侮ってはならない。見下してはならない。そして、宗教を無意味だと考えている人は。 この事実に気付いていた方がいい。 人間の社会そのものがフィクションで成立しているということである。

神様の実在を証明する

さらにもう一歩、足を踏み入れてみよう。宗教を信じないのと同様、神様なんてこの世にはいない、と信じている人がいる。しかし、どうだろうか。これから、神様の実在を、あなたのために証明しよう。
先に意識の謎について触れたが、人間には意識と無意識がある、とは聞いたことがあるだろう。自分の内面を見つめてみたら、意識と無意識があるということは、すぐにおわかりいただけるかと思う。
車を運転していて、ふと気づいたら直近の5分、10分のことがまったく思い出せないという経験をした人は少なくないはずだ。それでは誰が運転していたのか?無意識が運転していたのである。では、意識と無意識で、より大きいのは、どちらだろうか。容易に想像いただけると思うが、無意識のほうがはるかに大きい。実際、人間の脳できるは、一瞬の間に、1100万個の情報を受け付けていると言われている。しかし、自分の意識は、そのうち40から50しか処理できない。これが現実なのだ。
脳科学者によれば、無意識の処理能力は、意識の処理能力の2万倍である。
では、意識でもって、自分の無意識の隅々までを探ることはできるだろうか。答えは、ノーである。一生涯かけてもできない。
セラピストのソファに座り、一生懸命にそれをやろうとする人もいるのだが、見えてくるのは、ほんのひとかけら程度である。
しかし、自分の無意識は、自分にいろんな問題の解決方法を教えてくれたり、いろんなインスピレーションを与えてくれる。車の運転だけではない。無意識は、日常生活のいろいろな場面であなたを助け、サポートしてくれている。
無意識とは、自分の意識をはるかに超える存在であり、一生涯かけてもその深みをすべて探ることはできない。自分の日常にも大きな影響を与え、日々の問題解決についてもインスピレーションを与えてくれる。
ここまで語ると、あなたの思っている無意識と、神学者の説く神様には、どのくらいの差があるのだろう?
あなたは思うかもしれない。神学者は「神は外にある」と言っている、心理学者は「無意識は人間の中にある」と説いているではないか、と。
しかし、深層心理の研究で世界的に知られるスイスの精神科医・心理学者のカール・ユングは、最終的に人間共通の無意識について、「無意識は人間の外にある」と説いている。キリストは、「天国はあなたの内に宿る」と言った。真逆のことを言っているのだ。
ここで注目したいのは、無意識と呼ぼうが、神様と呼ぼうが、自分の意識を超える、はるかに大きな力が世の中にはあり、自分の意識を超えるはるかに大きな力を人間は活用することができるということなのだ。

無能マンで良い

無能マンはスーパーヒーロー。だから超能力を持っている。その超能力は一つの言葉を発する力である⇒頼む!!!。

松下幸之助はなぜ、「経営の神様」になったのか

・松下幸之助が偉人になった理由
高い目的意識
: 松下幸之助は、単にビジネスを成功させることだけを目的とせず、より高い目的、すなわち社会全体の共存共栄を目指しました。彼は自身の事業を通じて社会に貢献することを重視し、その思想が彼の事業戦略や経営哲学に深く根ざしていました。
価値観の変革: 松下幸之助は、ある宗教団体の建設現場を訪れた際、その現場の美しさとボランティアの精神に深く感銘を受けました。この経験が彼の価値観を変え、ビジネスを単なる利益追求の手段ではなく、より大きな社会的価値を生み出す手段として捉えるようになりました。
継続的な学びと成長: 松下幸之助は、成功しても学び続ける姿勢を持ち続けました。彼は常に新しい知識を求め、自己成長に努めたことで、経営者としての視野を広げ、多くの革新的なアイデアを生み出しました。
他者との協力: 彼は他人の力を借りることの重要性を理解しており、周囲の人々と協力しながら目的を達成しました。この協力的な姿勢が、彼の事業を成功に導き、多くの人々に影響を与えました。
松下幸之助が偉人とされる理由は、彼のビジネスの成功だけではなく、その背後にある価値観、学び続ける姿勢、社会への貢献、そして他者との協力にあります。彼は単なるビジネスマンではなく、社会的な影響力を持つリーダーとして、多くの人々に尊敬され、影響を与え続けています。

第5章:神の数学、悪魔の数学

責任感が諸悪の根源である

では続いて、宗教が多くの人の日常生活に何をもたらしているのか、知られざる姿をご紹介していきたいと思う。その前に、衝撃的な話を語ることにする。これを言われると、大きな衝撃を受ける人は多いに違いない。
「責任感が諸悪の根源である」
私たちは、責任感がとても素晴らしいものであると教わってきた。「あの人は無責任だ」というのは、最大の侮辱の言葉の一つであり、「あの人は責任感がある」というのは、最大の褒め言葉の一つにもなっている。しかし、この道徳観念について、その本当の姿を見ていこう。ささやかな「数学」を使って。
あなたは借金を抱えているとする。友達から5万円を借りた。そして、あなたはその5万円を返した。道徳的観点からすると、これはプラスなのか、それともマイナスなのか。それともゼロなのか。じっくり考えてみてほしい。この質問の答えは、これからの私たちの旅に大きな影響を与えるものであるからだ。
プラスか、マイナスか。
これは「ゼロ」である。
自分の借金を返すことで、自分の責任を果たしたが、それは道徳的に優れているということにはならない。あなたは自分に要求されたことをやったまでのことで、やらなければならない義務を果たしたまでである。
一方で、自分の借金を返すことで、道徳的に卑劣だということにもならない。バランスは取れている。借金を返し、義務を果たしたので、ゼロだ。
では、あなたはその借金を返さなかったとしよう。友達を困らせたまま、あなたはげてしまう。これは、道徳的にプラスか、マイナスか。マイナスである。あなたは義務を果たさなかった。約束を破った。自分のものではないものを奪い、友にも迷惑をかけた。だから、マイナスである。
私はこれを「悪魔の数学」と呼んでいる
考えてみてほしい。これが私たちの人間関係の性質だとするならば、マイナスはあっても、プラスは発生し得ないのだ。
私たちの人間関係が義務感、責任感、借金の概念に基づいて営まれているとすれば、その関係は最初から最後までゼロかマイナスなのである。実態は、奴隷関係なのだ

責任感は、やがて憎しみを生む

そんなことはない、と思われるかもしれない。
ではここで、恋愛をしているカップルを想定してみよう。クリスマスの時期が近づしきた。彼氏は彼女をクリスマスイブのディナーに連れて行くはずだ。彼の責任でり、彼の義務である。そして、彼女はこう叫ぶ。「私を幸せにするのは彼の仕事だ」こうして彼氏は彼女をデートに連れていく。これは、プラスか、マイナスか。ゼロか。ゼロだ
余計な点数はつかない。彼女にとって、ディナーは特別に扱われたと思えるものでない。特別に感謝も満足も感じない。なぜなら、彼氏は未来の義務を果たしただけからだ。
もう一つ、想像してみよう。クリスマスのディナーに連れていくのは彼氏の義務だが、彼はその選択をしなかった。仕事に疲れ、その夜は一人で過ごすことにした。プラスか、マイナスか。それともゼロか。
当然、マイナスとなる。
そして、そのことがお互いの関係における第三次世界大戦の勃発となる。
お互いはお互いを幸せにしなかったことについて責め合う。相手に罪悪感を持たせようとする。相手を強制しようとする。
自分の義務だから、責任だからということで、相手のためにいろんなことをやってあげる。愛からでなく、喜びからでなく、自分がやりたいからでなく、自分の責任を果たすためにやる。そうしないと罪悪感が生まれる。
そんな責任感が生み出す結果とは、どのようなものだろうか。

「悪魔の数学」

そして、あなたのやることがすべて当たり前になると、やらなければあなたはマイナスのレッテルを貼られる。
やがてあなたは憎しみを抱くだろう。責任感だけで行動し続けると、自分に銃が向けられて強制されているように、あなたは相手を憎むようになるのだ。これこそが、「悪魔の数学」の意味である。
強制と罪悪感、暴力と責任感は、悪魔が世界に憎しみをもたらすために使っている道具なのだ。
本当の悲劇を目撃したければ、愛しているからという気持ちではなく、責任感と義務感で子どもを育てている親を見ればいい。

キリスト教が引き起こした革命「愛」

そこで、私たちは責任感を、方程式から除外したと考えてみよう。
彼女を幸せにするのは、彼氏の責任ではない。義務でもない。彼はそもそも赤の他人である。独立した人間なのだ。
彼氏自身にも望みはある。彼女の召使いとして彼女の人生にやってきたのではなく、ギフトとして彼女の人生に現れたのだ。
そしてクリスマスイブに、彼は彼女をディナーに連れていかない。
これは、プラスか、マイナスか。ゼロか。
ゼロである。
彼氏には、彼女をディナーに連れていく責任はそもそもない。
著者の私が、あなたをクリスマスのディナーに連れていかなかったら、あなたは怒るだろうか。怒らないだろう。あなたは私にそういう責任があると思っていないから、あなたはそれをなんとも思わない。
ところが彼氏は、彼女をディナーに連れていくとする。彼女をディナーに連れていきたい。彼女にディナーをご馳走したくなったのだ。
これは、プラスか、マイナスか。ゼロか。
プラスである。なぜならこれこそが、愛の表現だからだ。彼女にとっては、要求されてもいないこと、求められてもいないことをやってくれたのだ
彼氏は、彼女がディナーに連れていきたい、という気持ちだけで彼女をディナーに連れていったのである。そう、相手をコントロールしたいという気持ちをなくすことで、すべては変わる。
自分に置き換えてみてほしい。
あなたが責任感も義務感もなく、ただやってあげたいという気持ちで相手のためにいろんなことをやってあげているとしよう。どういう結果になるだろうか。
それが、愛である。
これこそが、「神の数学」なのだ。
「神の数学」では、プラスが可能になるのだ。マイナスは入り込む隙間がないのである。
義務感や責任感ではなく、自由意志で他の人に仕える。これこそが、神様がこの世界に愛をもたらすために使っている道具なのである。愛であり、ギフト。そしてこれこそ、キリスト教が引き起こした哲学的革命だったのだ。
そのときまでの宗教は、すべてカルマ宗教だった。教典は、すべて過去の業や応報による義務や責任感を語っていた。罪の代償は自分で払わなければならなかった。善いことをしても、それは罪滅ぼしにしかならなかった。
キリスト教が登場するまでのすべての宗教の経典は、責任感をひとしきり語っていた。彼らは無限と我々の関係をカルマに対しての借金として説明していたのである。私たちは罪人だった。私たちのいたらない努力によって、神との関係において負債を負っている身となってしまっていた。
私たちはその罪滅ぼしのために血による犠牲を捧げたり、善い行いをしなければならなかった。借金を返済しようと必死だった。しかし、金利は高く、なかなかその借金を返済させることができない。神様は単なる高利貸しにされてしまったのだ。
そこに、イエス・キリストがやってきて言った。「神様は一方的にあなたの借金を許す」と。これが、キリスト教なのだ。
負債が許されてしまえば、どうなるか。私たちは責任から解放される。
あなたが責任を負っているから行われた善い行いは、あなたの救いに対して、何の足しにもならない。もう負債は許されている。そうなってこそ初めて愛が可能になった。
自分の罪滅ぼしではなく、神様とのてんびんのバランスをよくさせるためでもなく、私たちはただそれをしたいがためにそれができるようになった。愛しているからという理由でできる。ギフトだ。愛だ。
プラスだけが可能のしくみ。つまり、「神の数学」である。

スコアカードをつけてはならない

そこで、私たちは責任感を、方程式から除外したと考えてみよう。
彼女を幸せにするのは、彼氏の責任ではない。義務でもない。彼はそもそも赤の他人である。独立した人間なのだ。彼氏自身にも望みはある。彼女の召使いとして彼女の人生にやってきたのではなく、ギフトとして彼女の人生に現れたのだ。そしてクリスマスイブに、彼は彼女をディナーに連れていかない。これは、プラスか、マイナスか。ゼロか。ゼロである。
彼氏には、彼女をディナーに連れていく責任はそもそもない。
著者の私が、あなたをクリスマスのディナーに連れていかなかったら、あなたは怒るだろうか。怒らないだろう。あなたは私にそういう責任があると思っていないから、あなたはそれをなんとも思わない。
ところが彼氏は、彼女をディナーに連れていくとする。彼女をディナーに連れていきたい。彼女にディナーをご馳走したくなったのだ。これは、プラスか、マイナスか。ゼロか。プラスである。なぜならこれこそが、愛の表現だからだ。彼女にとっては、要求されてもいないこと、求められてもいないことをやってくれたのだ。彼氏は、彼女がディナーに連れていきたい、という気持ちだけで彼女をディナーに連れていったのである。そう、相手をコントロールしたいという気持ちをなくすことで、すべては変わる。
自分に置き換えてみてほしい。
あなたが責任感も義務感もなく、ただやってあげたいという気持ちで相手のためにいろんなことをやってあげているとしよう。どういう結果になるだろうか。それが、愛である。これこそが、「神の数学」なのだ。「神の数学」では、プラスが可能になるのだ。マイナスは入り込む隙間がないのである。
義務感や責任感ではなく、自由意志で他の人に仕える。これこそが、神様がこの世界に愛をもたらすために使っている道具なのである。愛であり、ギフト。そしてこれこそ、キリスト教が引き起こした哲学的革命だったのだ。
そのときまでの宗教は、すべてカルマ宗教だった。教典は、すべて過去の業や応報による義務や責任感を語っていた。罪の代償は自分で払わなければならなかった。善いことをしても、それは罪滅ぼしにしかならなかった。
キリスト教が登場するまでのすべての宗教の経典は、責任感をひとしきり語っていた。彼らは無限と我々の関係をカルマに対しての借金として説明していたのである。私たちは罪人だった。私たちのいたらない努力によって、神との関係において負債を負っている身となってしまっていた。
私たちはその罪滅ぼしのために血による犠牲を捧げたり、善い行いをしなければならなかった。借金を返済しようと必死だった。しかし、金利は高く、なかなかその借金を返済させることができない。神様は単なる高利貸しにされてしまったのだ。そこに、イエス・キリストがやってきて言った。「神様は一方的にあなたの借金を許す」と。これが、キリスト教なのだ。

負債が許されてしまえば、どうなるか。私たちは責任から解放される。
あなたが責任を負っているから行われた善い行いは、あなたの救いに対して、何の足しにもならない。もう負債は許されている。そうなってこそ初めて愛が可能になった。自分の罪滅ぼしではなく、神様とのてんびんのバランスをよくさせるためでもなく、私たちはただそれをしたいがためにそれができるようになった。
愛しているからという理由でできる。ギフトだ。愛だ。
プラスだけが可能のしくみ。つまり、「神の数学」である。

だからこそキリスト教は、愛、慈善活動等をほかよりも積極的に行う。クリスマスのときには、プレゼント、ギフトを与える。そういうのがキリスト教に連想されている。キリスト教だけが、一方的な罪の許しを説いているからだ。他の宗教は、相互性の原則が支配している。罪人は自らの罪を滅ぼすために、自ら犠牲を捧げなければならない。キリスト教の本質は、相互性の否定である。一方的な借金の許しなのだ。キリストは主の祈りと呼ばれる祈りの中で、次のように教えている。「私たちから借りたものを許すように、私たちの負債も許したまえ」つまり、私たちは他の人との関係において、相互性を実行しなくなれば、神様が私たちの精神的な負債も許してくれる、としている。さらに聖書の中では、こんな記述がある。「お金を愛することは諸悪の根源である」ここで注意しなければならないことは、「お金は諸悪の根源だ」、とは書いていないことである。「お金を愛すること」が諸悪の根源なのだ。お金そのものは、負債なのである。人間関係における、相互性の必要性の主張。
お金というのはつまり、自分は何を社会に与え、何を他人からもらったのかのスコアカードというものだ。このスコアカードを常に追求し、それを好むことこそ、諸悪の根源なのだ。「悪魔の「数学」そのものである。道徳的マイナスは可能だが、プラスは決して発生し得ない。ほとんどの哲学者は、相互性は道徳の土台であると教えている。しかし、これは間違っている。相互性は、貿易の土台である。商売の土台なのだ。相互性の原則は、すべての人間関係を単なる取引に変えてしまう。
そこには、ギフトという考え方が入る余地はない。愛の隙間はない。道徳が入り込むスペースはない聖書における最も古い物語を紹介しよう。それは、この真実を見事に物語っている。最初の人間であるアダムとイブには、二人の息子がいた。カインとアベルである。二人は神様に犠牲を捧げるよう、要求された。そして、二人とも要求された通りにした。しかし、カインは恨みを持ちながら犠牲を捧げた。どうしてこんなことをしなければいけないのか、どうしてこんなことを要求されるのか、と。一方のアベルは、喜んで犠牲を捧げた。神様は、カインの犠牲を拒否した。神が、愛そのものだからである。恨みは愛の反対なのだ。そして犠牲とは、一方的に何かを差し上げるという意味である。そこには、責任も義務もない。スコアカードもない。カインは自分が要求された犠牲を恨み、自分の捧げ物が神様に拒否されたことを恨んで、その恨みのあまり、自分の兄弟のアベルを殺してその財産を盗んだ。これが、殺人の始まりである。人間関係における道徳の秘訣は、どちらもスコアカードをつけないことにあるのだ。義務と責任感を忘れることだ。私たちが教わってきた「誰かが私たちのために何かをしたら、それを返さないと私たちは悪い人になる」を忘れるのだ。返してしまったら、どちらもいい人にはなれない。これは、単なる取引なのだ。「何かをしてあげたのだから、何かを返してもらわないといけない」と考えてはならない。それでは、いつまで経ってもプラスは生まれない。愛の行動は感じられない。「どうしてこんなに会社に尽くしているのに」などと考えてはならないのだ。
私たちはスコアカードをつけてはならない。勘定をつけてはならない。損得で考えてはならない。キリスト教の説く罪のあがないとはつまり、神様はスコアカードをつけないという約束なのだ。他人との関係においても、そうであるべきである。ゲシュタルト・セラピーの生みの親、フリッツ・パールズが、「ゲシュタルトの祈り」の中で、これを優雅に表現している。私が最初に教わったバージョンは、これである。
私は私である。あなたはあなたである。私がこの世の中に生きているのは、あなたの期待に応えるためなどではない。そして、あなたがこの地球に生きているのは、私の期待に応えるためでもない。私は私であり、あなたはあなたである。そして、私たちはたまたま会えば、それは美しい。さもなければ、それはやむを得ないことである。
これらの言葉を正しく理解することは、すべての精神病を癒すこととなる。ここで理解しなければならないことは一つ。
私があなたにギフトを差し上げることは、あなたに負債を負わせることではない。それは返すべき借金でもない。それはあなたを所有するための支払い金でもない。単なるギフト、プレゼントだ。そのギフトを私が差し上げ、あなたが受け取ることで、それで終わり。その後、あなたが私に何かをくれたとしても、それは返済ではない。これは新たなギフト、プレゼントである。また、愛である。自由に差し出し、自由に受け入れる。プラス、足す、プラス、足す、プラス。プラスしか生まれない。それが「神の数学」である。

奴隷制度はなぜ生まれ、なぜなくなったか

社会はなぜ、義務と責任感を植え付けてきたのか。そこには一つの理由がある。奴隷が必要だと思ってしまったからである。
人間の歴史が進んでいくと、困ったことが起きた。誰もやりがたらない仕事が出てきたのである。日本でよく言われるところの3K「キツイ、汚い、危険な仕事」というもの。誰もやりたがらないことを、どうやって、やってもらうのか。昔の人間が考えたのは、強制だった。強制を可能にするのは、2種類しかない。身体に対する暴力と、精神に対する暴力である。
身体に対する暴力は、バイオレンスだ。ムチを持ち、銃を相手に向ける。言う通りにしろ。こうして奴隷が生まれた。精神の暴力とは何かというと、罪悪感を抱かせることである。これをやらなければ、あなたは地獄に行く。これをやらないあなたは悪い人である。

自由意思を大切にするプロテスタント思想

いずれにしても相手を操り、強制して、やってほしいことをやらせるための暴力だ。ちなみに私の座右の銘はこれである。
「私は奴隷にならない。私は奴隷を持たない」
責任感を抱いてもらうことは、社会があなたを奴隷にするための一つの方法なので切る。あなたはそれを受け入れないと、社会は簡単に次の方法に訴えるだろう。バイレンスは遠く離れたところにあるわけではない。
実は人類の歴史では、ずっと奴隷制度があった。驚くべきことに、つい最近まであたのだ。オマーンで奴隷制度が廃止されたのは、1970年のことである。ほんの6年ほど前なのだ。
東アフリカから貿易としての奴隷が廃止になったのは、1913年である。ちょうJ110年前。そして、その解放に奔走したのは、実は白人たちだった。
アフリカの奴隷たちを奴隷にしたのは白人ではない。黒人たちである。アフリカの黒人が、アフリカの黒人を奴隷にしたのだ。したがって、間違っても人種差別の話などではない。力関係の問題だったのだ。
***
アフリカで最も数多くの奴隷を作り出したのは、マサイ族である。彼らはとても強かった。他の部族を襲い、その人たちを奴隷船が待つ海岸まで連れて行って奴隷とし売り飛ばしていった。力があるから相手を強制し、やってもらいたいことをやってもらったのだ。アフリカにおいて、白人たちは奴隷を買ってはいたが、奴隷を作っていたわけではない。
奴隷解放のために戦ったのは、すべて白人たちだった。もちろん、奴隷たちが自分で自分の鎖を振り払うために戦いに挑んだという歴史もたくさんあるが、奴隷制度そのものの廃止のために奮闘したのは、イギリス人とアメリカ人だけなのである。
なぜか。キリスト教のプロテスタント派が広がっていたからである。プロテスタント派の教義の中で、面白いものがある。
前世、私たちみんなが地球に来る前に、天において大会議が開かれた。そこで神様はまず人間に「自由意志」を与えたのだ。神様からの最初のギフトはこれだった。
これを宗教観念として信じていれば、他の人の自由意志を奪うことはつらい。奴隷制度を正当化させることはかなり難しい。
カルマの宗教では、奴隷制度は正当化しやすい。この人はきっと前世で悪いことをしたからこうなっているのだ、という説明がつく。
しかし、実はこれだけでは奴隷制度の廃止にはならなかった。もう一つ、哲学的な革命が必要だった。それが、「自由資本主義」だったのである。

自由資本主義とプロテスタント思想

ザンジバルの旧奴隷市場の隣に教会堂がある。その中に祀られている聖人君子は、リヴィングストン博士である。奴隷廃止のために戦って命を捧げた白人だ。このエピソードが教えてくれるのは、私たちがどんな宗教観、どんな哲学感を持つかによって、社会の形が丸ごと変わってしまうということである。
プロテスタント教は、日本人には遠い存在、と思っている人も多いかもしれないが、日本人はみなプロテスタントだと私は感じている。
日本では、人間はみな平等に作られた、と思っている人ばかりである。自由意志で自分の人生が選べる権利があると思っている人ばかりである。
まさにプロテスタント教の発想ではないか。そして西暦というキリストの暦をカレンダーに使っている。世界のほとんどの国が彼の誕生した瞬間を基軸として、今日という日を測っているのである。

重なったところは栄える

経済的には、必要な仕事がすべて行われないと、社会としては恐怖に陥る。だから、やはり強制するしか方法はないのではないか、という気持ちになるわけだ。そこで登場したのが、アダム・スミスの『国富論』だった。
アダム・スミスは「見えざる手」を説明し始めた。何も心配はいらない。汚い仕事でも、キツイ仕事でも、危険な仕事でも、誰もやらないとなると価格が上がる。十分に価格が上がれば、誰かがそれをやってくれるに違いない。
そういう仕事を自動化し始める人も出てくるに違いない。効率を高めるための研究も進むに違いない。だから、心配はいらない、と。
こうして、プロテスタント教の宗教観と自由民主主義が重なったイギリスとアメリカで、奴隷制度の維持は望ましいものではなくなり、不可能になったのだ。白人たちは命を張って奴隷制度の廃止のために戦った。

第6章:エゴがあなたを人質にしている

Identificationとは、英語で「同一であることの証明」や「身分証明」などの意味を持つ名詞です。例えば、身分証明書や指紋などは、identificationの例と言えます。また、心理学や社会学では、「同一視」や「一体化」という意味で使われることもあります。例えば、自分と他者や集団との関係を感じることをidentificationと言います。

禁じられたおまじない「私」

エゴは人間まで所有しようとした

エゴが、戦争、殺人、奴隷制度を生み出した。

エゴが生み出す恐怖

エゴは幸福を先延ばししようとする

敵を作ることは、エゴの病的表れの究極版

子どもの未来を邪魔する親のエゴ

エゴがもたらすのは、味気ないメロドラマ

第7章 英雄の物語を作ろう

英雄の物語は、再三再四同じストーリーを描いている

あなたの抵抗は、いったいなんだろう

「召される者は多けれども、選ばれし者は少ない」

私たちは手軽に手に入れたものは軽んじてしまう

神々の究極の武器、「同盟」と「希望」

世界中で、実在しない龍が描かれている理由

龍は神話における己のシンボルである。理由は自己の二面性を表す。そして、この己に勝つこと以外に真の勝利はない。
ヒーローの物語では、その形はどうあれ、最後はエゴに打ち勝つということ。

自分が計り知れない力を持っている、という恐怖

「アイツ」に気をつけろ

頭の中の声は、単なるストーリー発生期にすぎない。 私は日本語でこれを「アイツ」と名付けた。

第8章 4つの元型を理解する

人間を定義する4つの「元型」

「戦士」「恋人」「魔法使い」「王様」

  1. 戦士 (Warrior):

    • 特徴: 戦士の原型は、体力、活力、行動力を象徴します。この原型は、物事を成し遂げるためのエネルギー、健康、フィットネス、そして生命力を表します。

    • 役割: 戦士は、目標達成、問題解決、挑戦に立ち向かう力を提供します。この原型は、自己鍛錬、規律、勇気を必要とします。

  2. 恋人 (Lover):

    • 特徴: 恋人の原型は、感情、情熱、感受性を象徴します。この原型は、愛、美、喜び、そして人生の楽しみを表します。

    • 役割: 恋人は、人生に対する情熱や喜びをもたらし、創造性や感受性を高めます。この原型は、人間関係や芸術的な表現において重要な役割を果たします。

  3. 魔法使い (Magician):

    • 特徴: 魔法使いの原型は、知識、洞察力、理解力を象徴します。この原型は、知恵、分析力、直観、そして変革の力を表します。

    • 役割: 魔法使いは、問題解決、イノベーション、そして深い洞察を提供します。この原型は、学習や知識の探求において中心的な役割を果たします。

  4. 王族 (King/Queen):

    • 特徴: 王族の原型は、権威、責任、統治を象徴します。この原型は、リーダーシップ、安定性、秩序、そしてビジョンを表します。

    • 役割: 王族は、目的意識、方向性、そしてコミュニティや組織に対する責任感をもたらします。この原型は、リーダーシップと組織運営において重要です。

・4つの原型のバランス
バランスの重要性
: これら4つの原型は相互に関連し合っており、個人の完全な発展と幸福には、これらの原型をバランスよく発展させることが重要です。
不均衡の影響: 一つの原型が過剰または不足していると、人生のバランスが崩れ、様々な問題が生じる可能性があります。例えば、戦士の原型が過剰な場合、攻撃的または競争的になりすぎる可能性があります。逆に、恋人の原型が不足していると、人生から喜びや情熱が欠けることになります。

これらの4つの原型は、人間の性格や行動の多様な側面を理解するためのフレームワークを提供します。自己認識と個人的な成長のために、これらの原型を理解し、自分自身の中でバランスを取ることが重要です。

4つのどれを欠かしてもいけない

・4つの元型のバランスの重要性
全体的な発展
: 人間の性格や能力は、戦士、恋人、魔法使い、王族という4つの元型によって形成されます。これらの元型は相互に関連しており、一つの元型だけを発展させるのではなく、全てをバランスよく磨くことが重要です。
不均衡の問題: 一つの元型が他の元型に比べて過剰または不足していると、人生のバランスが崩れ、様々な問題が生じる可能性があります。例えば、戦士の元型が強すぎると攻撃的になりがちですが、恋人の元型が不足していると、人生から情熱や喜びが欠けることになります。

・各元型の磨き方
戦士の磨き方
: 体力を高め、規律を持って行動すること。目標に向かって努力し、挑戦を恐れない姿勢を育てることが重要です。
恋人の磨き方: 感情を豊かにし、人生の美を感じ取る能力を高めること。人間関係を大切にし、情熱を持って生きることが大切です。
魔法使いの磨き方: 知識を深め、洞察力を養うこと。学び続ける姿勢と、新しいアイデアや解決策を生み出す能力を育てることが重要です。
王族の磨き方: リーダーシップを発揮し、責任を持って行動すること。ビジョンを持ち、他者を導く能力を高めることが大切です。

4つの元型はすべてを磨く必要があります。これは、個人の全面的な成長とバランスの取れた人生を達成するために不可欠です。各元型は個人の異なる側面を表し、それぞれが重要な役割を果たします。これらの元型をバランスよく磨くことで、より充実した人生を送ることができるでしょう。

自分の「戦士」の姿を評価してみよう

戦士の10のチェックポイント

  1. 全体的な健康: 体の健康状態、病気の有無、体の機能が適切に働いているかどうか。

  2. 全体的なフィットネス: 体力のレベル、運動能力、持久力など。

  3. 食生活の質: 栄養バランスが取れた食事をしているか、健康的な食生活を送っているか。

  4. 運動の一貫性と強度: 定期的に運動しているか、運動の強度は適切か。

  5. 病気からの解放: 頻繁に病気になるか、または健康的な生活を送っているか。

  6. エネルギーとバイタリティ: 日常生活で感じる活力のレベル、エネルギッシュに活動できるか。

  7. 規律性: 日常生活における規律、時間管理、約束を守る能力。

  8. 時間や約束を守る力: 約束やスケジュールを守る能力、時間管理のスキル。

  9. 物事を達成する力: 目標を設定し、それを達成するための行動を取れるか。

  10. ハングリー精神: 新しいことに挑戦する意欲、常に成長しようとする姿勢。

・戦士の元型の重要性

  • 行動と達成: 戦士の元型は、目標達成や問題解決において重要な役割を果たします。この元型は、挑戦に立ち向かい、目標に向かって努力する力を象徴しています。

  • 自己鍛錬と規律: 身体的な健康とフィットネスは、自己鍛錬と規律を必要とします。これらは、個人の意志力と持続力を高めるのに役立ちます。

戦士の10のチェックポイントは、個人の身体的な健康、フィットネス、規律、目標達成能力などを評価するための基準です。これらのポイントを通じて、自分の戦士の元型の強さを理解し、必要に応じて改善することができます。バランスの取れた人生を送るためには、戦士の元型を適切に磨くことが重要です。

自分の「恋人」の姿を評価してみよう

・恋人の10のチェックポイント

  1. 友人関係: 友人との関係の質、親密さ、信頼性。

  2. 親密関係: パートナーとの関係の深さ、愛情の表現、コミュニケーション。

  3. 家族関係: 家族との絆、相互理解、サポート。

  4. ビジネスと職場関係: 職場での人間関係、協力性、チームワーク。

  5. 他人を理解し感情移入する力: 他者の感情や立場に対する理解と共感。

  6. エモーションの質: 感情の豊かさ、感情表現の適切さ。

  7. エモーションの強さ: 感情の強度、情熱的な生き方。

  8. 人生を楽しむ力: 日常生活での楽しみ、趣味や娯楽への関心。

  9. 遊ぶ力: リラックスして楽しむ能力、遊び心。

  10. 適切な形でルールを破る力: 創造性、型にはまらない考え方、自由な精神。

・恋人の元型の重要性
感情と情熱
: 恋人の元型は、感情の深さ、情熱、愛情、喜びなどを象徴します。この元型は、人生の楽しみや創造性、人間関係の豊かさに大きく影響します。
人間関係の深化: 恋人の元型は、親密な人間関係の構築と維持に不可欠です。愛情深い関係を築くためには、感情の共有、共感、理解が重要です。

恋人の10のチェックポイントは、個人の感情的な側面、人間関係の質、情熱的な生き方を評価するための基準です。これらのポイントを通じて、自分の恋人の元型の強さを理解し、必要に応じて改善することができます。バランスの取れた人生を送るためには、恋人の元型を適切に磨くことが重要です。

自分の「魔法使い」の姿を評価してみよう

  1. 世界に対する理解力: 自分がどれだけ世界を理解しているか。

  2. 自分の知識の幅と深さ: 知識がどれだけ広範かつ深いか。

  3. 自分の教育レベル: 教育を受けたレベルや知識の質。

  4. 問題を解決する力: 様々な問題に対してどれだけ効果的に対処できるか。

  5. 生活において変化をもたらす力: 日常生活での変化をいかに生み出せるか。

  6. ユーモア感: ユーモアを理解し、使いこなせる能力。

  7. システムや組織を構築する能力: 効率的なシステムや組織を作り上げる能力。

  8. ビジネス能力: ビジネスの世界で成功するための能力。

  9. 収入のレベル: 現在の収入とその安定性。

  10. 財産のレベル: 財産の量と質。

これらのチェックポイントは、魔法使いの元型としての自分の能力を評価するための指標となります。それぞれの項目を自己評価することで、どの分野を強化すべきかが明確になります。

自分の「王様」の姿を評価してみよう

・王族(王様)の10のチェックポイント

  1. 自分の目的、運命、ミッション、ビジョンの感覚: 自己の目的や運命に対する明確な理解とビジョン。

  2. 人生の意義の深さ: 自己の存在と行動の意義に対する深い理解。

  3. 自分のリーダーシップ: リーダーとしての能力、影響力、指導力。

  4. コミュニティや国家の政治的プロセスへの参加度合い: 社会やコミュニティにおける積極的な関与と貢献。

  5. 他人を見て彼らを認識する能力: 他者を理解し、適切に評価する能力。

  6. 自分の表現する感謝レベル: 感謝の気持ちを表現し、他者に伝える能力。

  7. スピリチュアリティ: 精神的な深さと、より高い次元の理解。

  8. より崇高な力にまたは他人につながり、それに頼る力: 他者や高次の存在とのつながりを持ち、それを生活に活かす能力。

  9. 自分の神聖さ: 自己の内なる価値と尊厳に対する認識。

  10. 自分の能力を超えるプロジェクトを遂行する能力: 自己の限界を超えて大きなプロジェクトや目標を達成する能力。

・王族(王様)の元型の重要性
リーダーシップとビジョン
: 王族の元型は、リーダーシップ、ビジョン、責任感を象徴します。この元型は、個人や集団を導き、大きな目標や夢を実現する力を持っています。
影響力と貢献: 王族の元型は、社会やコミュニティに対する積極的な影響と貢献を促します。この元型を持つ人は、他者や社会全体のために働き、大きな変化をもたらすことができます。

王族(王様)の10のチェックポイントは、個人のリーダーシップ、ビジョン、社会への貢献、精神的な深さを評価するための基準です。これらのポイントを通じて、自分の王族の元型の強さを理解し、必要に応じて改善することができます。バランスの取れた人生を送るためには、王族の元型を適切に磨くことが重要です。

4つの元型を、さらに進化させる方法

第9章 幸福に向かう道のり

出家に学ぶ

自分の言葉に注意せよ!

・自分の言葉で無意識に命令するとは
この概念は、私たちの言葉が無意識に大きな影響を及ぼすという考えに基づいています。私たちが発する言葉は、単にコミュニケーションの手段ではなく、自分自身の無意識に対する命令として機能するとされています。

言葉の力
自己認識
: 私たちが口にする言葉は、自己認識の表れであり、自己イメージを形成する重要な要素です。
無意識のプログラミング: 言葉は無意識の心に直接働きかけ、思考や行動パターンを形成します。ポジティブな言葉はポジティブな思考や行動を促し、ネガティブな言葉はその逆の効果をもたらします。
現実の創造: 私たちが話す言葉は、私たちの現実を形作る力を持っています。自己肯定的な言葉は自信と成功を生み出し、自己否定的な言葉は不安や失敗を引き寄せる可能性があります。

言葉の使い方
ポジティブな言葉の選択
: 自分に対して肯定的で前向きな言葉を選び、使用することで、自己イメージを強化し、望ましい現実を創造することができます。
自己否定の避け方: 自分自身に対する否定的な言葉や自己制限的な言葉を避けることで、ネガティブな自己イメージや制限を減らすことができます。
意識的な言葉の使用: 日常の会話や自己対話において、言葉を意識的に選び、ポジティブな影響を与えるよう努めることが重要です。

「自分の言葉で無意識に命令する」という概念は、言葉が持つ力と、それが私たちの思考、感情、行動、そして現実に与える影響の大きさを示しています。ポジティブな自己対話と肯定的な言葉の使用は、自己成長と幸福への道を開く鍵となります。

脳の形は変えられる

人間がオルドバイ渓谷から起ち上がってから今日に至るまでの200万年の歴史は、カロリー不足の歴史だったと、すでに書いた。食料を手に入れることが大変だったのだ。だから人間の身体は今もなお、できるだけ省エネルギーにするようにできている。そして、人間の身体の中で最もエネルギーを使うのは脳である。こうして、私たちはできるだけ脳を使わないようになった。
これは、私たちが無限の現実に向かおうとするとき、大きな意味合いを持っている。
できるだけ脳を使わないようにしているので、あなたの脳は「ザル」のようになっているのだ。できるだけ情報を逃すようになっている。試験の勉強をしたことがある人であれば、これが真実だと、すぐにわかるだろう。何でも、すぐに忘れてしまう。しかし、それは自然なことなのだ。
脳は五感、目から、耳から、触覚から、嗅覚から、味覚から入る情報をすべて処理しようとしたら、加熱を起こして死んでしまいかねないのである。
だが、ザルがどのような「しくみ」になっているのかは知っておいたほうがいい。

脳は大切だと思う情報だけを拾うようにできている。

多くの人は、目標を設定したり、ビジョンを描くとき、やり方が見えてきたら、初めて口にしたり、書き留めたり、これは自分はやりたいと認める。つまりは、できそうなことだけをやろうとするのだ。しかし、これは大きな問題である。なぜなら、自分の脳はどう思っているのか。こう考えるのだ。
「どうせあなたがやらないのであれば、どうして、そのやり方を知る必要があるのか。どうせあなたがやろうとしないのであれば、どうしてそのやり方を探さなければいけないのか」
こうして、その目標を達成させる方法の情報が実は目の前にあったとしても、脳は素通りしてしまう。すべてザルの目から抜けていってしまうのだ。
新約聖書の中に書かれてある通りである。
「探せば、見い出す」

なぜ、私は宇宙に行くことができたのか

才能を問題にしてはならない

・才能を言い訳にしてはいけないとは
この概念は、人々がしばしば自分の能力や成果の欠如を「才能がない」という理由に帰する傾向に対して警鐘を鳴らすものです。この考え方は、才能よりも努力や継続が成功においてより重要であるという視点を強調します。

・才能と努力の関係
才能の誤解
: 多くの人々は、成功するためには特別な才能が必要だと考えがちです。しかし、この考え方は、努力や学習の重要性を過小評価することにつながります。
努力の価値: 実際には、才能よりも努力、練習、学習が成功においてより重要です。努力によってスキルを磨き、知識を深め、経験を積むことが、長期的な成功につながります。
成長マインドセット: 才能を固定的なものと捉えるのではなく、成長可能なものと見る「成長マインドセット」を持つことが重要です。このマインドセットは、挑戦を受け入れ、失敗から学び、継続的に自己を向上させることを促します。

・才能を言い訳にしないために
自己責任の受け入れ
: 自分の成果や成長の欠如を外部の要因や才能の不足に帰するのではなく、自己責任を受け入れることが重要です。
継続的な学習と成長: 成功への道は、継続的な学習、練習、経験の積み重ねによって築かれます。才能よりも、日々の努力と成長に焦点を当てることが重要です。
挑戦を恐れない: 新しいことに挑戦し、困難に直面することは成長の機会です。挑戦を避けるのではなく、それを成長のためのステップとして受け入れることが重要です。

「才能を言い訳にしてはいけない」という概念は、成功への道は才能だけに依存するのではなく、努力、練習、学習、そして挑戦を通じて自己を向上させることにあると教えています。この考え方は、個人が自己の可能性を最大限に引き出すためのマインドセットを育むことを促します。

幸福への簡単な道「最小主義」

最小主義は、生活を単純化し、必要最小限のものに焦点を当てるライフスタイルです。このアプローチは、物質的な所有物や過剰な消費を減らし、より意味のある活動や関係に時間とエネルギーを注ぐことを奨励します。

・幸福への近道としての最小主義
物質的な執着の減少
: 最小主義は、物質的な所有物への執着を減らし、人生の単純化を促します。これにより、物質的なものに依存することなく、内面的な充足感を見つけることができます。
時間とエネルギーの再配分: 不要な物や活動から解放されることで、時間とエネルギーをより価値のあることに再配分できます。これには、趣味、人間関係、自己成長などが含まれます。
ストレスの軽減: 物質的な所有物や過剰な活動によるストレスが減少します。最小主義は、生活を整理し、心の平穏を促進します。
意識的な選択: 最小主義は、日々の選択をより意識的に行うことを奨励します。これにより、自分の価値観や目標に合った生活を送ることができます。

・最小主義の実践方法
断捨離
: 不要な物を手放し、物理的な空間を整理します。これにより、生活が単純化され、管理が容易になります。
価値観の再評価: 何が本当に大切かを見極め、それに基づいて生活を整えます。物質的な豊かさよりも、精神的な満足や幸福を優先します。
意識的な消費: 購入や活動において、本当に必要かどうかを考え、意識的な選択を行います。
時間管理: 忙しさを減らし、自分にとって重要な活動に時間を割り当てます。

最小主義は、外部の物質的なものに依存することなく、内面的な充足感と幸福を見つけるための有効なアプローチです。このライフスタイルは、生活を単純化し、本当に大切なものに焦点を当てることで、より充実した人生を送ることを可能にします。

天国を作る人、地獄を作る人

第10章 死とは何か

あなたがなくなるわけではない

人生において、あなたがどこに向かっているか。それは明らかである。間違いなく、死に向かっている。私たちはみな、生まれたときから死すべき身体を持っている。だが、形あるものはすべて存在を始めると、しばらく形を保ち、そこから崩壊していくのだ。
インドの「オーム」と呼ばれている音を紹介しておこう。「AUM」と書く。これは、インドの宗教観の中に、3つの神様がいることを表している。先にも記したブラフマン、ヴィシュヌ、シヴァ神である。
ブラフマーは創造の神様。万物の創造主である。つまり、形を作り出す神様だ。
面白いことにインドに行ってみると、あれほど寺院の多い国なのにもかかわらず、ブラフマーを祀る寺院はどこにもない。
これは、他の神様が文句を言ったからだそうである。
「あなたは万物を創造した上に、さらに自分を祀る寺院まで要るというのか」
「万物そのものが、あなたを祀っている寺院ではないのか」
たしかにその通りだろう。創造するので、数字で表せば、「プラス1」とも記せる。
ヴィシュヌは、保持の神様である。形をそのままに保つ。形あるものが形をなすと、しばらくその形をなし続ける。これは、ヴィシュヌのおかげである。保持なので、数字で表せば、「ゼロ」とも記せる。
そして、シヴァ神は、崩壊の神様である。転換の神様とも言う。その形を崩し、違う形にそれを変えていく。壊すので、数字で表せば、「マイナス1」と記せる。
この3つ神様の概念があるから、数学はインドで生まれた。他の国で生まれたのではない。創造主だけの宗教ならば、プラスの数字以外はいらないのだ。そこで、インドの哲学者、ブラーマグプタは、他の神様の働きを示すために、ゼロとマイナス1の数字を打ち出したのである。
なぜ「AUM」なのか。
「アー」という音を発声する。音が出てくる、形が現れる。
「ウー」という音を発声する。その音が続く。形の継続を表す。
「ンー」という音を発声する。その形が崩れていって、また、無に戻る。そして、「無」。
この無は沈黙である。日本ではこれを「阿吽の呼吸」と呼んでいる。
あなたの人生もこれと同じである。あなたは生まれて形を持ち、アイデンティティを持ち、名前を持ち、意識を持ち、しばらくそれが続き、やがてなくなっていく。しかし、身体がなくなっていくことは、形のないあなたがなくなっていくことを意味しない。このことを理解することは、とても重要である。

問題は、「本当に生きる」かどうかである

身体というものは、食べることによって集めた、物質のコレクションに過ぎない。コレクションであるためには、コレクターがいなければいけない。そして、コレクターは、コレクションに先立たなければならない。
あなたの身体をなす物質を集め始めたのは、誰だろうか。それこそが、本当のあなたである。それは、身体に先立つ存在なのだ。
それでも身体が自分だと言うなら、哲学の観点だけではなく、科学の観点で考えてみよう。あなたの身体は細胞でできている。正確には、細胞とバクテリアでできている。先にも記した通りだ。
各細胞の中には、別の生き物も生きている。ミトコンドリアである。肝臓細胞であれば、1細胞の中に2000個のミトコンドリアが生活している。
あなたの身体は、全部で100兆もの生き物の集合体なのだ。では、その100兆もの生き物は、あなたと同じときに生まれたのだろうか。先にも触れているが、そうではないことはすぐにわかる。
例えば、白血球は24時間しか命がない。
おとといあった白血球は、もう今はいないのだ。
命が短いのである。
この身体を構成しているものは、あなたと同じときに生まれるものでもなければ、あなたと同じときに死ぬものでもない。そして、あなたの身体を離れて生きることができる。
輸血ができる。移植手術ができる。違う身体に引っ越してしても、楽しく細胞は生活できるのだ。
だから、あなたはこの身体ではないのである。それは科学的にもすぐにわかるのである。

ダライ・ラマ14世の教え

仏教の「般若心経」では、まさにこのことが語られている。
「不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中」。
汚れるものでもなければ、清められるものでもない。増えるものでもなければ、減るものでもない。その故に、これらはすべて自分ではないというものに含まれる。すべて自分ではないと説いていくのだ。
私たちは、それ以外のもので、この世界を作り上げている。外を観察することで、世界を作り上げている。だから、般若心経は最後にこう説く。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」。
行こう。向こうまで行こう。完全に向こうまで行こう、と。
私はダライ・ラマ14世から、伝授を受けた。自分自身を切り捨てて、真我を見ようとするのだ。だが、少しでも到達したからと、行くのをやめてはいけない。まだ到達していない。
もう到達したと思っても、まだ到達していない。だから「波羅僧羯諦」。完全に向こうまで渡ろう、となるのだ。

本当の自分とは

昔から仏教では、次の考案がある。
「あなたは顔を持つ前に誰だったのか」
あなたは身体ではない。マインドでもない。マインドは、いろんな思い出、計画、創造のコレクションである。しかし、ここでもコレクションがあるためにはコレクターがいなければならない。そして、コレクターは、コレクションに先立たなければならない。あなたの最初の記憶を作ったのは、誰か。最初の思いを作ったのは、誰か。最初の計画を立てたのは、誰か。
それこそが本当の自分である。それは、マインドに先立つ存在でなければならないのだ。
あなたは、エモーションでもない。自分の感じているエモーションを感じているのは、誰だろうか。それは自分であり、そのエモーションに先立たなければならないのだ。
自己観念でもない。自分の掲げているさまざまなアイデンティティや名前などは、単なるラベルである。本当の自分とは、ほぼ遠い存在である。

人生を生き切る

みんな死ぬのだ。例外はない。だが、それは問題ではない。問題は、その前に「本当に生きる」かどうかである。先にも触れた。人生の最後になって、振り返ってみてこう叫べるか、だ。
「私は生きたんだ、どうだ!」
そして残る人たちに向かって、次のように言えるか。
「あなたが、このくらい生きられるなら、このくらい生きてみろ!」
そう言ってステージを去るなら、死は悲劇でも悲しい出来事でもない。
生き切った人間の葬儀に出たことがある。それは、お祝いだった。美しさしかなかった。あなたの最期も、そうなることを祈るばかりである。

病院で死んではいけない


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