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仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か/魚川祐司(2015/04/24)【読書ノート】

日本仏教はなぜ「悟れない」のか――? ブッダの直弟子たちは次々と「悟り」に到達したのに、どうして現代日本の仏教徒は真剣に修行しても「悟れない」のか。そもそも、ブッダの言う「解脱・涅槃」とは何か。なぜブッダは「悟った」後もこの世で生き続けたのか。仏教の始点にして最大の難問である「悟り」の謎を解明し、日本人の仏教観を書き換える決定的論考。

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はじめに

本書は、仏教を「わかる」ための手助けを目的としている。「わかる」とは、単なる知識の増加ではなく、知識を関連づけ、自分の中に統一的な理解を構築することを指す。読者が仏教を理解するための道筋を提供することが本書の狙いだ。
既に多くの仏教解説書や入門書が存在し、経典の現代語訳も豊富だ。これらは縁起や五蘊、無常といった基本概念を解説しているが、「仏教とは何か?」という核心にはあまり触れていないことが多い。つまり、用語の説明はあっても、仏教徒が何を目指していたのかが明示されていないのだ。
仏教徒の目標を理解しなければ、仏教全体を把握することはできない。ゴータマ・ブッダにとって、それは「解脱 (vimutti)」と「涅槃 (nibbāna)」であった。大海の水に塩の味しかしないように、仏法にも「解脱の一味 (ekaraso vimuttiraso)」しか存在しないと説かれており、本書ではその「一味」について考察する。
解脱・涅槃は多くの人にとって常識だが、その具体的な内容は不明確だ。入門書では涅槃を「安らぎ」や「幸せ」と説明するが、これが日常の安らぎや幸福とどう異なるのかは説明されていない。
言語を超えたものであるため解脱・涅槃の説明が難しいとされるが、その性質や結果についてはもっと詳しく述べることができるはずだ。本書では、解脱・涅槃とその結果に焦点を当て、二つの問いを通じて探求していく。
①ゴータマ・ブッダの言う解脱・涅槃とは何か?
ゴータマ・ブッダは「悟った」後、なぜ死ななかったのか?
一つ目の問いは解脱・涅槃の内容についてのものであり、二つ目の問いはその結果についてのものである。後者が「なぜ死ななかったのか」という形で問われる理由については、前者の問いに対する回答を前提として、本文中で詳述されることになる。
各章の内容について、前半の四章では、仏教を「わかる」ために理解しておくべき前提や概念を整理する。仏教には業や輪廻といった独自の世界観があり、これらの正確な理解なしに解脱・涅槃を理解することは困難だ。そのため、本書では必要な範囲でこれらの前提や概念を解説している。
第一章では、仏教を考える上で「絶対にごまかしてはならない」前提を指摘し、同時に本書の基本的立場を示す。第二章では、縁起と四諦を中心に仏教の基本構造を解説。第三章では善と悪の問題を考察し、第四章では「無我」と輪廻の関係について混乱を解きほぐす。
後半の四章では、先述の二つの問いに対する回答と、それに基づく仏教史全体の展望を示す。第五章と第六章では一つ目の問いに対する回答が、七章では二つ目の問いに対する回答が示される。最後の第八章では、それらの回答を踏まえた仏教史の理解を示すが、この部分は範囲を超えるため、示唆にとどめる。

第一章:絶対にごまかしてはいけないこと~仏教の「方向」

苦労して証得したものを、いまや説くべき必要はない
貪りと瞋りにやられてしまっている人々が、この法をよく悟ることはない
これは流れに逆らうもので、微妙にして甚深、見難く精細なものであるから
貪欲に染まり、暗闇に覆われた者には見ることができないのだ
聖求経しょうぐきょう

仏教は「正しく生きる道」?

田を耕すバーラドヴァージャ

ゴータマ・ブッダとバラモンのバーラドヴァージャとの対話を描いた話がある。ブッダが托鉢のために、田を耕すバーラドヴァージャの元に現れた際、バーラドヴァージャは「自分は耕作した後に食べているのだから、あなたも耕作した後に食べなさい」と言った。これは、現代風に言えば「働かざる者食うべからず」という理屈に近い。
この指摘に対し、ブッダは「私も耕作してから食べている」と応じた。バーラドヴァージャがその意味を問うと、ブッダは「信仰が種子であり、苦行が雨である」という詩的な表現で、宗教的実践を耕作にたとえて説明した。この解釈にバーラドヴァージャは納得し、乳粥を差し出したが、ブッダはそれを「詩の報酬として得たものは食べてはならない」として受け取らず、乳粥を捨てさせた。この場面から、ブッダが詩を唱えたことへの対価を受け取ることを拒絶していることがわかる。
パーリ経典によれば、どうやらゴータマ・ブッダらの食べ物を捨てることに対する忌避感は、さほどに高くなかったようで、それはそれで非常に興味深い問題なのだが、重要なのは、ここでゴータマ・ブッダが明らかに、一般的な意味での労働~即ち、何かしらの仕事を提供して対価を受け取ること~を拒絶していることである。

労働 (production) の否定

現代日本では、僧侶が葬式や法要を行って収入を得ていることが多く、これを「お坊さんも仕事をしている」と考える人が少なくない。しかし、少なくともゴータマ・ブッダの教えでは、出家者に対して労働を厳しく禁じていた。僧侶を意味する比丘(bhikkhu, s. bhikşu)という言葉自体が「食を乞う者」を意味しており、乞食こつじき(托鉢)で最低限の糧を得て生活することが求められていた。ゴータマ・ブッダの指示に従い、律(僧侶の規範)では、物の売買や貨幣(金銀)による取引を明確に禁止している。つまり、俗世における労働や取引には関わらないことが、比丘たちに課せられた規範だった。ゴータマ・ブッダ自身も、詩を唱えた報酬として乳粥を受け取ることを拒否したエピソードがある。
また、現代日本の仏教においても、葬式や法要の際に僧侶に支払う金額が明示されないことがよくあり、これが一般の人々の不満の一因になることがある。これは、「僧侶は労働しない」という建前が、ある程度残っているからだ。法要の際に「これだけの金額を払ってください」と要求することは、読経などの対価として報酬を受け取ることになってしまうため、僧侶は金銭の要求をせずに法要を行い、俗人が任意でお布施をする形をとる。この形式により、僧侶が労働の対価として報酬を受け取っているわけではないという体裁を保とうとしている。
さらに、バーラドヴァージャの話に見られるように、僧侶は農耕も行わない。「一日さざれば、一日食らわず」という『|百丈清規《ひゃくじょうしんぎ》』の言葉が有名で、僧侶も労働するのではないかと思う人がいるかもしれないが、これは中国で発展した禅仏教の考え方であり、ゴータマ・ブッダ以来のインド仏教では一般に僧侶は農業生産には関わらない。かつてミャンマーのテーラワーダ僧侶に『百丈清規』の言葉を紹介したところ、「私たち僧侶は労働ができないから、何も食べられなくなってしまうな」と冗談を言われたことがある。
このように、解脱や涅槃を求める出家者に対しては、農業や商取引を含むあらゆる労働生産の行為が禁じられている。これはゴータマ・ブッダの仏教における基本的な立場の一つだ。

マーガンディヤの娘
生殖 (reproduction) の否定
流れに逆らうもの
在家者に対する教えの性質

ゴータマ・ブッダが常に賞賛し、聞法者たちに強く勧奨していたことは、経典中に決まり文句として繰り返されるとおり、「家を出て家なき状態へと赴く (agārasmā anagariyam pabbajati)」ことであって、そうして労働と生殖の行われる社会における「処世」から、弟子たちが身を離すことであった。
そのように「家なき状態へと赴く」ことで、渇愛を滅尽して涅槃へと至ることがゴータマ・ブッダの教説の本筋であって、在家者に対する説法というのは、そこまではできない人たちに対する、あくまで二次的な性質のものであったと捉えておくべきであろう。
ところで、余談であるが、このように出家生活を重視したゴータマ・ブッダは、異母弟のナンダや息子のラーフラといった自分の身内に関しては、かなり無理やりに出家させてしまっている
長男のみならず、その弟のナンダや、孫のラーフラにまで出家されてしまった父王のスッドーダナは、相当に辛い思いをしたらしく、ゴータマ・ブッダに対して以下のような激越な抗議をした記事が、律蔵の「大品」に見えている。
世尊(ブッダ)が出家した時は、少なくない苦を味わいました。ナンダが出家した時も同様だし、ラーフラの際の苦といったら極大です。尊者よ、子に対する愛というのは皮を破り、皮を破って膚を破り、膚を破って肉を破り、肉を破って筋を破り、筋を破って骨を破り、骨を破って骨髄を打ち破り存するものです。どうか尊者よ、父母の許しのない子を出家させないでください。》
これにはさすがにゴータマ・ブッダも参ったようで、以後はスッドーダナの願いを聞き入れて、父母の許しのない子は出家させないことにしたということである。

絶対にごまかしてはならないこと

さて、ここで本章冒頭の問題に戻ろう。ゴータマ・ブッダの教えは、現代日本人である私たちにとっても、「人間として正しく生きる道」であり得るのかどうか、ということである。
結論から言えば、そのように彼の教えを解釈することは難しい。何度も繰り返し述べているよに、ゴータマ・ブッダの教説は、その目的を達成しようとする者に「労働と生殖の放棄」を要求するものであるが、しかるに生殖は生き物が普遍的に求めるところであるし、労働は人間が社会を形成し、その生存を成り立たせ、関係の中で自己を実現するために不可欠のものであるからだ。
現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して「異性とは目も合わせないニートになれ」と求めているわけで、そうしたあり方のことを「人間として正しく生きる道」であると考える現代日本人は、控えめに言っても、さほどに多くはないだろうということである。
既に述べたとおり、この「異性とは目も合わせないニート」、即ち、出家者になるということは、ゴータマ・ブッダの仏教をその言葉どおりに究極的なところまで実践する上では必然的なことである。
例えば、彼の説法を聞いて最初に悟った人であるコーンダンニャ (Anñāta-Kondañña) は、そこで直ちに出家を願い出て、「来たれ比丘よ。法はよく説かれた。正しく苦を滅尽するために梵行を行ぜよ」と、ゴータマ・ブッダから許可を受けている。
あるいはその少し後にブッダの説法を聞いて阿羅漢(煩悩を滅尽した修行完成者)となった長者の子ヤサも、その場で直ちに出家を願い出て、また同じ言葉でブッダからその許可を受けた。ブッダはこのヤサについて、彼の心は煩悩から解脱してしまっているから、「かつて在家であった時のように、卑俗に戻って諸欲を享受することはできない」と言っているが、これは当然のことであって、渇愛(愛執)を消滅させてしまった彼の心は、もはやその作用に基づいて労働と生殖を行う俗人の世界には馴染まないものになっているので、彼が今後も生きていこうとするならば、その生は「梵行」による以外に、選択肢がなくなってしまうわけである。
また現代のテーラワーダ仏教でも、修行者が阿羅漢になれば、かりにその人が在家者であったとしても、彼のその後の人生の選択肢は死ぬか出家するか以外にないとされているが、その事情は右と同様だ。
ゴータマ・ブッダの仏教はそのような性質のものであったので、それはしばしば、「厭世主義」であるとか「ニヒリズム」であるとか、あるいは「生の否定」であると評価されてきた。
私自身は後の章で述べるような理由によって、ゴータマ・ブッダの仏教が「生」そのものを徹頭徹尾否定するものであったとは、言い切れないと考えている。だが、それは「凡夫(悟っていない衆生)が生の内容だと思っているところのもの」を、少なくともいったんは否定し、そこからの「解脱」を促すものでは確実にあった。
したがって、ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提となっている、「人間」とか「正しい」とかいう物語を、破壊してしまう作用をもつものなのである。
このことは、仏教を理解する上で「絶対にごまかしてはならないこと」であり、またこのことを明示的に踏まえておくことなくしては、ゴータマ・ブッダの仏教のみならず、「大乗」を含めたその後の仏教史の展開についても、その思想の構造を適切に把握することはできないと、私は考える。

本書の立場と目的

ゴータマ・ブッダの仏教を理解するにあたって、その価値を貶めようとしているわけではない。むしろ全く逆であり、仏教を「人間として正しく生きる道」といった単純な理解に回収してしまうことをやめた時、初めてその本当の価値が知らされることになる。また、「仏教とは何か」という根本的な問題についても、正しく把握することが可能になるというのが、本書の基本的な立場だ。
仏教が「科学的で合理的だ」と評価されたり、戒律や慈悲の概念を通して「健全で優しい人になれる」という処世術として宣伝されることがよくある。こうした言説は、仏教に興味を持ったり、実際に「健全で優しく」なる人がいるからこそ広がっているのだろが、それがゴータマ・ブッダの仏教を適切に評価しているとは言い難いし、仏教の本質を見逃し、仏教の最も危険でありつつ魅力的な部分を隠してしまう誤解にもなっている。
仏教のテクストや実践を詳細に検討すると、確かに「合理的な」面もあるが、同時に「非合理的な」面も存在しており、近代科学とは全く相容れない知見や方法も多く見られる。ゴータマ・ブッダが理想とした生活は、現代の日本人にとって「健全」とは言いがたいものであり、また慈悲の思想も、私たちが想像する「優しさ」とは似て非なるものだ。
ゴータマ・ブッダの教えは、人間が自然に向かう流れに対して「逆流」することを説く。彼が「来たれ比丘よ。正しく苦を滅尽するために梵行を行ぜよ」と述べた言葉は、現代日本人の感覚では明らかに「世の流れに逆らった」「非人間的」な生活へ導くものである。
ここで重要なのは、ゴータマ・ブッダ自身も自覚していたその「非人間的」な教えの性質を否定したり隠したりすることではなく、その教えが指し示す方向について再考することである。彼らが「世の流れに逆らう」実践を行った目的は何であったのか、再び徹底的に考え直すべきだということだ。
『スッタニパータ』の冒頭に繰り返し述べられているように、ゴータマ・ブッダの教えに従って渇愛を滅尽した修行者は「この世とかの世をともに捨て去る」。この「この世とかの世をともに捨て去った境地」、すなわち解脱・涅槃こそが、仏教の普遍的な価値であり、仏教理解の出発点であり終着点であるべきだ。
本書の目的は、この課題を言語の範囲で徹底的に探求し、言語以前のゴータマ・ブッダの個人的な証悟の体験(自内証)が、他者に伝えられる「教」として現れ、「思想」としての意味を明らかにすることである。
この作業によって初めてゴータマ・ブッダの教えの性質を理解し、それに対する自らの価値判断を決定できるだろう。本書全体の記述は、読者が仏教を把握するための基本的な視座を提供するためにある。

第二章:仏教の基本構造~縁起と四諦

「転迷開悟」の一つの意味:有漏と無漏
盲目的な癖を止めるのが「悟り」:縁りて起こること
基本的な筋道:苦と無常:無我:仮面の隷属
惑業苦:四諦:仏説の魅力:次章への移行

第三章:「脱善悪」の倫理~仏教における善と悪


瞑想で人格はよくならない?:善も悪も捨て去ること
瞑想は役には立たない:十善と十悪
善因楽果、悪因苦果:素朴な功利主義
有漏善と無漏善:社会と対立しないための「律」
「脱善悪」の倫理:次章への移行

第四章「ある」とも「ない」とも言わないままに~「無我」と輪廻

「無我」とは言うけれど:「無我」の「我」は「常一主宰」
断見でもなく、常見でもなく:ブッダの「無記」
「厳格な無我」でも「非我」でもない
無常の経験我は否定されない:無我だからこそ輪廻する
「何」が輪廻するのか:現象の継起が輪廻である
文献的にも輪廻は説かれた:輪廻は仏教思想の癌ではない
「無我」と「自由」:次章への移行

第五章「世界」の終わり~現法涅槃とそこへの道

我執が形而上学的な認識に繋がる?:「世界」とは何か
五蘊十二処・十八界:「世界」の終わりが苦の終わり
執著による苦と「世界」の形成:戲論寂滅
我が「世界」像の焦点になる:なぜ「無記」だったのか
厭離し離貧して解脱する:気づき (sati) の実践
現法涅槃:次章への移行

第六章:仏教思想のゼロポイント~解脱・涅槃とは何か

涅槃とは決定的なもの:至道は無難ではない
智慧は思考の結果ではない:直覚知
不生が涅槃である:世間と涅槃は違うもの
寂滅為楽:仏教のリアル:「現に証せられるもの」
仏教思想のゼロポイント:次章への移行

第七章:智慧と慈悲なぜ死ななかったのか

聖人は不仁:慈悲と優しさ:梵天勧請
意味と無意味:「遊び」:利他行は選択するもの
多様性を生み出したもの:仏教の本質:次章への移行

第八章:「本来性」と「現実性」の狭間で~その後の話

一つの参考意見:「大乗」の奇妙さ
「本来性」と「現実性」:何が「本来性」か
中国禅の場合:ミャンマー仏教とタイ仏教
「仏教を生きる」ということ

おわりに

あとがき



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