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痛くて動け「ない」というのは、痛みが「ある」ということ

昨日はUR都市機構さんの演奏企画に呼んでいただき、お住まいの方向けのコンサートをしました。

イメージはカフェっぽく、来てくださった方にも、
お茶をお出しして行うイベント企画でした。素敵。

声かけていただいたり、CD購入いただいたり。すごくあたたかく嬉しい演奏でした。住民の方から、また来て欲しいとお声が上がったとのことで今回同じ場所では2回目。今回も来てくださった方から「おお!この曲好き!」とか「差し入れ持ってきました」とか!「初めて来たけど素敵だったー」と仰る方もCDお求めいただいたり、とてもありがたいリアクション。

こちらも心地よく演奏できました。こんなに喜んでいただけるなんて。

ギター舩冨とちゃんと分けっこしました。ちゃんと。
お気遣い本当にありがとうございます。

そんな幸せの手前道中、というかもう家の前出てすぐさぁ行きましょうとなった後で、何もないところで躓き転倒、譜面台やマイク機材と、物販までフルコースで持っていた身体が一瞬宙に浮き(感覚的には割と浮いた、けど実際はそんなこともない気がする)そのまま支えられず、地面にバーンと転倒。

こんな日に限ってバックパック。全重量が膝と腕に襲いかかる。心臓バック、バック。

嫁入り前の顔(顔相も希望も薄め)は死守したものの、右腕以外の3肢にあまり経験した事ないくらいの痛みがありました、が、とにかく急がねばと、一旦立ち上がりなんとか歩けたので大阪へ向かう。無事到着する前まで片膝に血を流していましたが、なんとか止血(笑)人間の体ってすごいな、はたらく細胞。

階段の登り降りが結構難しいものの、なんとか無事終えて、その後レッスンのお仕事と月曜日のツイキャス定期配信を終える。

やり切った…と、力が抜け切ったらどんどん身体が動かなくなってくる。まずい。と思ってなんとかシャワーだけは済ませて就寝。

翌朝、とりあえず湿布を貼っていたらなんとか朝昼のレッスン出来たのですが、左腕が上がらず右手でしか鍵盤をおさえられず。こういうのって翌日に来るんですね(歳かな…遠い目

そして今、診察に来てまさかの3時間待ち中。

カップに桜、咲いてる。

私の単なるドジでレッスンのお仕事を振り替えさせていただき…(生徒様方本当にすみません、ご理解ありがとうございます)整形外科って待つよって聞いてたけどまさかこんなだとは。夕方行ったら「診察は21時半過ぎですかね」って言われました。何よりそんなに診察する先生大丈夫なんすか…大変やろって心配なりますよね。むしろそれでも引き受けてくれてありがたい。

ふと、昨日紹介したこの動画、79個目の言葉を思い出す。「自分の中に何もないような気になる時がある、自分が作ってるもの、漫才、例えばモノボケとかも本当に自分が生み出してんのかみたいに思うことがある。そのモノに何か作れって言われてるみたいで」という又吉さんの言葉に対して、作家の古井由吉さんが「何もないという事は全部あるという事」と即答で仰った。

ずっと何か持っているとそこに何も新しいものが入ってこない。器の状態であれば、色んな感覚が入ってきて何か書けると。

〇〇がない…例えば、身体が大丈夫じゃない、ムーブが完全に婆で、階段がうまく降りれない、レッスン上手く出来ない…って、失われてないことの喪失感に気持ちが持って行かれそうになるけど、そこから新しい感覚はやってくる。

健康でスイスイ歩けていたことの喜びとかありがたさを得たし、怪我しないように気をつけようと思う反省を得たし、人を頼らせてもらう機会もこうして書く時間をも得た。治療も何とかしてもらえるし。本読む時間までありそう。

身体痛くても大事に至らず、演奏なんとかしに行けたことの感動もひとしお、全てある。

全て「ない」所から、また違う「ある」が生まれる。大事やな、忘れたらあかんなー。

どんな瞬間も愛でてあげたい。


​​​​​​​​​​​​【Live Information】

2階まで、階段這っていきます。

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堀 桂の note
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