短編小説 「飛行機」
ゴォーっという音がうちの真上を飛んでいく。飛行機だ。それも低空を凄いスピードで去っていく。行ったかと思うと20分もすればまた折り返してきてまた来た方向へと戻ってゆくから、きっと戦闘機とか自衛隊機とかともかくそういう飛行機なのだろう。僕のうちは6階まである集合住宅の1階だから何かが落ちてくるような心配はない。
「贅沢だよな」と孝は言った。何が?と妻の華子が応じた。
「10年位前までうちの上を戦闘機が飛ぶ事なんてなかったよな。海域がどうのこうと揉めるようになって以来、飛んでる気がするんだ」
「そうねぇ。その頃からだったかもしれない。夕太郎がまだ赤ちゃんだったから、せっかく寝入りそうだったのに、飛行機の音に吃驚して起こされたこともあったわ」
そうなのだ。10年位前まで本当にうちの上空を飛んではいなかった。演習だったにしても戦闘機自体は何処かで飛んでいたはずだ。それまでの何処か、戦闘機の飛行ルートの下にあたる地域住民から苦情が出たのかもしれない。だから詳しい事は解らないけど僕たちの知らない場所、遠く遠く海域が接している所では銃器を携えた巡視船がいて、必要とあれば使わざるを得ないような仕事をしている人たちがいるんだと思うと悲しくなった。
「ライト兄弟が飛行機を作り出したのだって、純粋に鳥のように飛んでみたかっただけなのにな」
「鳥に憧れたのね」 鳥のままで良かったのかもしれない。
「それがいつしか戦争に駆り出され、多くの人を殺す機械にされてしまった。悲しいな」 もしそんな必要もなく、人間に空の旅を楽しませるだめだけの人生だったらどんなにか良かっただろう。
「考えてみたら、計算機とかパソコンとか戦争に使うために開発されたんじゃなかったっけ?」 計算機は分からないけど、パソコンはミサイルの弾道を計算したりするのに使うみたいだからね、と言いながら、孝は寝転んでいたソファから起き直り、華子が入れてくれたミルクティに口を付けた。
計算機は遡れば17世紀後半に源を発する。大きな役割を果たしたのはブレーズ・パスカルとライプニッツだ。パスカルがPascalineと名付けた計算機を、ライプニッツが改良して乗除算を直接計算できる新しい機械を発明した。
ライプニッツはこう言ったとされている。
「立派な人間が労働者のように、計算などという誰でもできることに時間をとられるのは無駄だ。機械が使えたら誰か他の者にやらせるのに」と。
ライプニッツはまた二進法の提唱者でもあり、今日のコンピュータは全て二進法に基づいて動作しているのだ。彼が現代を見る事ができたならどう思うだろう、と孝は華子との会話の合間にふと考えた。
人間の労働を減らすために己の能力をいかんなく発揮したのに、彼が遺した物の先にある進歩した技術が矛先を向けるのは、労働でさえなく別の国に住む人間なのだ。
「あれに乗ってる人も本当は乗りたくないでしょうしね」と華子は言った。
宇宙飛行士は宇宙へ旅立つ前に毎回遺書を書くというし、アメリカの300周と走る周回レースで、クルマに乗る男たちがレ-ス前に必ず家族と抱き合う姿が放送される場面は何度見ても孝の心を揺さぶる。妻の言葉に孝は戦闘機に乗る人たちの家族を思った。
そうだ。きっと彼・彼女たちもそう願っているに違いない。乗るならば自由に、楽しい旅になった方が良い。たとえ雨だったとしても、雲間に臨む地上はおもちゃのように、模型の街が一瞬で消えてしまうほどの速さで飛ぶ飛行機からの眺望はきっと静かで穏やかだろう。いつまでもそんな日が続けばいいと思う。
確かにゴォーッという音は時に疎ましく思うけれど、本当はその音が戻ってくるのを耳を澄まして待っている自分がいる事に孝はまだ気付いていない。
完
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