新詩集について
詩集を、8月に発行しました。
この詩集がどんなものか説明しようとすると、なんともいいようのない気持ちになります。
「喪失・死についての詩集です」といえば、多くの人は目を伏せるか、沈黙するかといった反応になります。日常会話の延長線上では、それは自然な反応でしょう。
こちらもそれ以上なにをいっていいのか分からなくなり、申し訳ない気持ちになります。実のところ、ぜひ読んでくださいとも言い難い。もしかしたら重たい気持ちになったり、しんどくなったりする方もおられるかもしれない。だからすすめるというよりも、どこかでそっと手にとっていただき、ひとり静かに読んでもらうというのが最上でしょう。
そうはいっても個人発行の詩集では、積極的に宣伝・営業をしないと、なかなか手にとってさえしてもらえません。だからイベントなどにも前向きに参加・出店していきます。内容はうまく説明できないまま、強くはおすすめできないままに。
とはいえ、この詩集を痛切に必要としてくれる方がいるはずだ、という思いがあります。これぞと選んだ書店さんに、取り扱いしていただくようお願いするのも、そうした気持ちがあればこそです。
今生きているものたちは、これから先100%死に、過去には膨大な死の累積があります。かように死は、空気のようにありふれ充満しているにもかかわらず、なぜ近しい人や生きものの死はこれほどつらく哀しいのか。
なぜそれはつい昨日のことのように鮮やかなままなのか。
なぜわたしたちは死をうまく消化できないのか。
なぜ社会生活において死はなかったことにされるのか。
なぜ消えてしまいたくなるのか。
なぜわたしなのか。
自分もしくは親しいものの死に近接したことがある人は、多かれ少なかれさまざまな疑問を持ち苦しみます。そして世界は裏返ってゆく。なぜ、どうしてという問いは、眠る前や浴室、にぎやかに人と話して別れた直後、乗り物で移動中などで、不意にあらわれます。そしてこの問いに完璧な答えがないこともわたしたちは知っています。
たまたま耳に入った歌声が、文の一節が、輝く色彩が、一時わたしたちを救うことがあります。そこには答えを求める問いではなく、声だけが、呼びかけが、嘆きと悼み、讃えと畏れがあり、答えは存在しません。ひとりごとのようでもあり、世界すべてへ向けたようでもある声。
詩は、呼びかける声であると同時にそれに応じた声でもあります。いわばふたつの方向から発せられたものがぶつかり、凝縮した響きです。だからその音域にチューニングを合わせている人にだけ、届くのでしょう。
詩作とは、声によってできた水滴をすくう手のひらとして、そうした「場」をつくることなのかもしれません。
前詩集『静けさを水に、かきまわす』の第 Ⅱ 章から派生して、この新詩集の詩ができました。
とてもなめらかに詩が生まれてきました。まるで、もっとしっかり嘆け、悼め、と詩が発しているかのように。
古代において感情は今よりももっと貴重な、宝石のようなものだったのではないかと想像します。生活は現代よりもずっと骨の折れることの連続であり、日々の営みで感情を大きく波立たせることはなかったのではないか。ごくまれにあらわれる強烈な感情こそが、神々や死者のいる彼岸世界へ誘ってくれる船だったのではないでしょうか。感情はネガティブ・ポジティブなものにかかわらず、その強度こそが重要だったのでしょう。
そしてわたしにとっても、日々の深い底に、思いもよらぬ豊穣な感情の渦があり、それらを詩が掻き出してくれたように思うのです。
新しい詩集ができあがってきて、パートナーに手渡した時のこと。
前詩集と同じく、今回も装画はパートナーの nao による顔彩画です。自分が描いた表紙をじっと眺めてから、「ここまでうれしい気持ちになるとは思っていなかった」といって、そのまましばらくたたずんでいました。
この詩集をつくってよかったと、そのとき心から思いました。
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新詩集紹介
題名:『音としてひとつ、手のひらにのる』
著者:古井フラ
装画:nao
装丁:古井フラ
発行:私家版(フルフラ堂)/2023年8月29日
仕様:銀箔押/小口折/帯有/ B6判変形/本文104頁
詩と三編のエッセイ。
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【 詩集刊行イベント予定 】
■ 4/14 - 4/30 とほん様
nao 原画作品等展示
■ 8/26 - 10/1 奈良蔦屋書店様
nao 原画作品等展示
■ 9/10 文学フリマ大阪 出店
(ブース : N-21 )
■ 10/10 - 11/4 HIBIUTA AND COMPANY様
nao 原画作品等展示
10 / 8 (日) 設営後 15時~ トークイベント(古井フラ)