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「何処かで誰かが」の話。

これは、「何にも無い」ということについて書いた。
そんな話。


書きたいことはたくさんあったのだけれど、それを全て言葉で書き表してみようとしても、多分その思いの全てが表現できるわけではない。

だからと言って、書かないというのも違うと思う。

もちろん書かないことで、自分の胸の内にある思いや、頭の中にある考えは、どんどん熟成されるかもしれない。

けれど、何処まで行っても、それらが日の目を見ない限りは、存在しないのと同じだ。いや、姿形は無くとも、存在するはずだという意見もあろうが、ここで言いたいのは、存在するか否かという話ではない。

自身の内なる声を外に出すことで、初めて自分の表現になること。自分を表現することで、世界と繋がること。そこで受け入れられるか拒まれるかは別として、初めてそこで接点が生まれるということだ。

世界は、社会は、集団は、そして他人は、私が私として、あなたがあなたとしてそこに「存在」することで、認識してもらえるのだ。

だから、こうして表現することで、初めて私はこうして「存在」できる。それが、本当に自分が認識してもらいたかった形ではなかったとしても、そこに初めて生れ落ちるということなのだ。

・・ごめんなさい、めっちゃ抽象的になってしまった。

何が言いたいかというと、最近よく観る動画がある。そこでは、言葉とか、魂とか、そういう話を深く掘り下げていて、何度も繰り返し観てしまう。そこから刺激を受けて、最近よく思考をしてしまうので、ちょっと冒頭から思いっきり漠然とした内容のことを書きなぐってみた。

さて、勿体ぶっていないで、その動画というのをご紹介する。これだ。
https://www.youtube.com/watch?v=AXJv3aLQKSo

嗜好の話になってしまうけれど、私は森山直太朗さんの歌が好きで、いや、彼のトークとかパフォーマンスも好きで、よく YouTube でも鑑賞する。

で、何気なくその流れで、この動画も観るようになった。

こちらのチャンネルを運営されているのは、森山直太朗さんと一緒に作詞作曲をされている御徒町凧(おかちまちかいと)さんという方で、その方の話が、とても共感できるものが多いのだ。

うーん、共感、なんて一言で言うと、なんとも軽いが。

この動画を観ると、森山直太朗さんのコミカルなトークと圧倒的な歌唱力と、お二人の仲の良さと、そして予想外の思いがけない展開に、心動かされてしまいがちだけれど、少しだけ踏みとどまって見方を変えてみても良いかもしれない。

着目すべきは、何よりもその「言葉」に対する思いの深さだ。プロではなく素人としてながらも、こうして文章を書いている身としては、彼らによる、その言葉の一つ一つを大切に扱う慎重さと、その言葉が持つ力の重さと繊細さと、誠実な向き合い方みたいなものに、脱帽せざるを得ない。

それと、もう一つ。同じチャンネルの中の別の動画。
https://www.youtube.com/watch?v=j5A3C55ia0E

なんか、動画の宣伝をしているみたいになっているけど、全然そんなつもりはなくて。これは、瞑想の話。その方法が動画の中で説明されている。

あ、えっと、断っておくと、瞑想って言っても、別に私はそういう方面に詳しくないし、スピリチュアルな関心も高くはないのだけれど、純粋に、その瞑想を通じて「生きる」ということを見直してみる良い機会になった。そのことが言いたかったのだ。

というのも、ちょうど今朝、私も同じようなことを考えていたのだ。いや、考えていたというよりも、何気なく実践していたという方が適切かもしれない。

目を瞑り、周囲の音を聞く。それから、聴く。
頭の中を一旦からっぽにして、勝手に入り込んでくるものを調理する。

今、自分は、何をしているのだろう。

今、自分は、何を考えているのだろう。
何を考えたいのだろう。

これから、何をしたいのだろう。
どうしていきたいのだろう。

そういう、一見考えても答えの無さそうなことに、思いを巡らせて、そうして、自分の中に、言葉にならない思いが溜まっていくのを待つ。そして、勝手に出来上がっていくイメージに向き合う。

実は今朝、湯船で、そんなことを思って、目を瞑ってみたのだ。

目を開けていると、容赦なく「今」が飛び込んでくる。

風呂から上がって、着替えて、朝食の準備をして、子供を送り出す準備をして、自分の仕事にとりかかって・・。仕事が始まったら、あの部署の誰々さんから来ていた問い合わせに回答して、それから、仕掛中のあの開発案件の影響調査をしなくちゃいけなくて、あと、データ抽出の依頼があったからデータベースの負荷を考慮してこのくらいの時間帯でクエリを実行して・・。

など、そういう「今」つまり現実は、大きな濁流の中に飲み込まれるように、流れに抗おうが、流れに身を任せようが、容赦なく押し寄せてくる。それらを日々こなしていくと、あっという間に一日が過ぎていく。

これはこれでいいかもしれないが、果たして、これでいいのか。

せっかくなら、もっと「きちんと生きて」みたい。だからしばしの間、目を閉じて、五感が刺激される要素に、心を向けてみる。

風の音が聞こえるな。水の音も聞こえる。湯船に入った身体から、その足から腰から、腹から感じる温度が、心地良い。入浴剤は、今日は薬湯の香り。薬用植物の効果なのか、心なしかいつもよりも汗が出ている気がする。少し、頭がすっきりしてきた。さて、そろそろお風呂から上がる時間かな。ああ、そしたら、今日の仕事はあれをしなきゃな。まぁでもそれは仕事が始まってからでいいか。そもそも、なぜ自分はそんなことを考えているのか。今の仕事はどうして就いたのか。キャリアなんてものを考えると堅苦しくなるけれど、仕事の時間を楽しく感じられることは幸運だ。どこまでそれができるだろう。子供が成人するまでは、何とか食いっぱぐれないようにしないとな。ああ、子供も、どんどん大きくなっていくな。自分に似ないでほしいな。親と自分、自分と子供その中に、真似すべきものでないものがあるとしたら、直していかなきゃな。そしたら、子供に対する接し方で改善すべき点はないか。そもそも、ちゃんと一人の対等な人間として子供に接しているか。自分がそうされて嫌なことはしていないか。言葉や、態度、言動。そうされて嫌だったのはなぜか。そういや、自分はどういう人間か、その輪郭を辿ってみたら何が見えてくるのか。夢や希望や、そして現実とそのギャップはどれくらいあるのか。目標は、実態は、これから進んでいくべきこと、手に入れていきたいこと、それらを自分が実現しているイメージ。純粋に想像してみる。成功とか勝ち組とか、そういうのではない。ただ、感じ、思いを馳せるだけ。

ただただ自分が「どうしてそこに居る」のか、そして「この先どうしていきたいか」そういうことを想像する。グルグルグルグルと、理路整然とはしていないし、ロジカルでもない。ポツポツと自然に任せて涌き出る、混沌とした思考だ。

そんなふうにしてボーっと考えてみると、少しだけ、自分が生きている感覚に触れられるような気がするのだ。

それは、客観的には「何もしてない」けれど、その内側では延々と考えが浮かんでは消えたり右に行ったり左に行ったりしながら自分を縁取る作業を行っている。それは「何も無い」ように見えるけれど、自分が世界と繋がるための「何か」が溜まってきている。その「何か」を外に出す行為の一つとして、私には「文章を書く」というのがある。

つまり、言葉にするのだ。その言葉の一つ一つに、思いがある。こんな、ライターでもない素人の私の紡ぎだした言葉ではあるけれど、たしかに「存在」しているし、それは同時に「生きている」証でもある。

それと同時に、まだまだ自分自身の「言葉」に対する感度の低さや、その信頼性の無さに、恥ずかしくなったりもする。

この記事を読んでくださる方がどのような方なのか、私には見当つかないけれども、普段何気なく操っている「言葉」というものに、果たしてどれほどの重さがあることを知り、また、それに対する敬意を持って使っている方がどれだけ居ることだろう。

それは自戒も含めて、よくよく見つめ直したほうが良いのかもしれない、と思ったりする。「言葉」と向き合うということは、恐らく「自分」と向き合うことでもあると私は思う。簡単に使えるツールであるがゆえに、その根底に潜んだ意味や強大な力なんかを、軽々しく扱ってやしないかな、と。

上にあげた動画を観ていると、そんなことを突き付けられているような気がするのだ。

最後に一つ、また動画を載せる。

森山直太朗 - 何処かで誰かが

https://www.youtube.com/watch?v=InGUWQ5NNho

すーっと、自分を離れて、見てみる。自分を離れ、部屋を離れ、家を離れ、町を離れて。作業を離れ、仕事を離れ、部署を離れ、会社を離れて。そして、現実を離れ、世界を見てみる。

色んな人が居るし、その中で、自分も生きている。そういう俯瞰じゃないけれど、目でもなく、耳でもなく、「言葉」というフィルターを通して、その世界を表現してみる。もちろん、その中の一員として、自分も付け加えたうえで。

恐らくだけれど、なんかもう色々抱えて大変な時には、疑似的にでも「何も無い」「何もやらない」ことを実践してみることで、何か見えてくるものがあるのかなとも思う。

つまるところ、全然高尚な理由なんかないんだけど、こうして今日も私は、書く。何にも無い私が、何かを記す。自分自身から生まれた「言葉」によって、それを表現する。そうやって世界と触れている。すなわちそれは、生きている自分を確認する作業を行っているのかもな、なんてくだらないことを考えながら。

ああ、またフワッとした記事を書いてしまった。おしまい。

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