ストカスティックあげるよ
ビチクソ感想文:『精神と自然 -生きた世界の認識論-』(グレゴリー・ベイトソン・岩波文庫)
なにかを読んだり、作品を鑑賞したあとに、よくこうして文章を書いているけど、別に文章じゃなくてもいいのだ。思ったこと、感じたことを文字にしなくていい。もっといろいろな方法で表現していい。たとえば、歌い出すとか、踊りだすとか、いきなりマラソンを走り始めるでもいい。
文章だけが、なぜだか感想の表現手段の王様として君臨しているけれど、文章がしっくりこないときだってある。ふさわしくないときもある。人間はもっと自由に感想を表現できるはずだ。よりうつくしく、よりたのしく。
『精神と自然』のような本の感想こそ、そのように表現されるべきではないのか。
本書を読み終わった後、私は歌いたくなった。それはたとえばこんな歌詞だった。
ストカスティックあげるよ ストカスティックあげるよ
ホントの勇気 みせてくれたら
ストカスティックあげるよ ストカスティックあげるよ
トキメク胸に キラキラ光った夢をあげるよ
ご存知、アニメ「ドラゴンボール」のエンディング曲「ロマンティックあげるよ」だが、ロマンティックの部分をストカスティックに言い換えたくなった。できればロックバンドを編成して歌いたかった。
でも、できない。だからビチクソ感想文を書いている。私に音楽的能力があれば、いますぐ歌い上げるのに。
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いったい何を読んでいたのだろう。精神とはなにかを考えたら、生物の進化とはなにかがわかった。あるいは、生物の進化について考えたら、精神についてわかった。一言でういうと、そんな本だ。人間の認知や理解とはどのような営みなのかを鋭く意識しながら、この世界の複雑さににじりよっていく。これは認識論(エピステモロジー)についての本なのだとベイトソンは書いている。スケールがでかい。こういうのを読みたかった。ちなみに本書は本屋の新刊コーナーに並んでいたのをジャケ買いした。どんな人物かの事前情報は皆無。運命を感じてしまった。
冒頭は精神や進化を考えていく上での前提条件が説明されるのだが、論理と因果のちがいを時間で整理するくだりにはビビッときた。その通りだなと納得すると同時に、あらためて時間の不思議さに胸を打たれた。
後半、「大いなるストカスティック・プロセス」といわれてもなんだか分からないのだが、一読してみれば、なるほどたしかに世界はこのように精妙なしくみで出来上がっているに違いないと説得されてしまった。
そのほか、ラッセルらが考案した数学の論理階型(ロジカルタイプ)という概念区分を生物界に持ってきて、進化と精神の成り立ちについて解説するのだが、理解を助けるためにベイトソンが紹介する事例が豊富すぎて笑ってしまった。可笑しいからではない。驚きすぎて笑ってしまった。機械工学から文化人類学まで話題が広がる。そのつなげ方や飛躍に魅せられる。さいしょは面食らうが、あまりにも具体的で的確なので「そうなのか!」と唸らされる話ばかりでたのしい。
そして、フォーム(形態)とプロセス、フィードバックとキャブリケーションといった対立概念を用いて、人間の理解や学習とは何かをあらためて分析していく。知性の輝きに目眩がする。ジェットコースターに乗っているようだ。興奮する。
最終章のタイトルが「それで?」なのもすばらしい。自由だ。たしかに、ここまで読んできて「それで?」(So what?)といいたくなる読者の気持ちもわかる。だが、私の場合は「それで?」以前の「これは一体なに?」という戸惑いのほうが大きかった。ふだんそれなりにものを考えているつもりだったが、もっと根本的に次元のちがう思考レベルを垣間見せられたような思いがした。
かといって、ベイトソンの語り口は上から目線の偉そうなものじゃない。まったく逆だ。「こうすればもっと広く世界をみることができるのに、ほら、おもしろいだろ?」とチャーミングな目配せをしてくる、全体を通じておちゃめな文章なのだ。『精神と自然』という真面目なタイトルからは想像がつかない。「それで?」なんて、ふつう真面目な本の章タイトルにつけないでしょ。それになぜかこの章だけ、娘との対話形式で書かれているのも謎でおもしろい。
読み通せばわかるが、最終章は「それで?」こそがふさわしいし、実際これは大真面目な本なのだ。大真面目なテーマだからこそ、たのしく、うつくしく語ることでしか、真実に近づけない。文体(フォーム)と内容(プロセス)の往還。本書を一読してみれば、そのスタイルこそベイトソンの哲学を間接的に現しているように思う。
大学にずっと籍を置くような人ではなかったらしいが、講義は学生たちから人気だったそうだ。わかる。本からも人間的な魅力が横溢している。
知性とはなんだろう。もちろん明確な答えなんてないのだけど、なんとなく窮屈なそうなものだと私は思っていた。「知性は窮屈」――私のなかでの定義はそれでいいかなと思っていた。だが、間違いだったかもしれない。「それは物事の一面にすぎない」とベイトソンにドヤされた気がする。
知性は自由なのだ。なぜなら私たちは『精神と自然』を読んで、自由を感じることができる。世界への畏怖をあらためて思い出すことができる。
このような本を書いたベイトソンの人生を漠然と想像して、じんわりと感動してしまった。なぜだろう。
最後に付された「時の関節が外れている」は大学組織内での回覧用に作成した文章らしいが、本書の簡潔なまとめになっていて、わかりやすかった。いきなりここだけ読んだらワケがわからないだろうが、全部読んだ上で読めばこれまでの議論がすっと頭に入ってくる。ありがたい。
当時の時代状況を想像させるが、大学の政治状況についても言及している。この部分は慎重に筆を運んでいて興味深かった。引き込まれた。
ベイトソンが語るような視点から考える政治とはなんだろうか。結局は泥臭いものになるのだろうが、それでも、このような視点を意識した上で泥臭くなることが重要なのだと思った。
論理階型(ロジカルタイプ)は本書のキーワードだが、実社会で生活する上でも、タイプの分別は大事だ。だが、タイプを間違わないことが重要なのではなく(なぜなら私たちはどうしてもタイプを混同してしまうので)、タイプを踏み間違えたときにどのように振る舞うかが、さらに重要なことなのだろう。それがジョークであったり、笑いだったりするのだろうし、間違えているからこそ、そこに理解と共感をもって、粘り強いタイプ間の交流を促すことが重要になってくるのだろう。ベイトソン流にいえば、ソマティックとジェネティックの2つのストカスティック・システムの絡み合いが大事なのだ。(――馴染みのないカタカナばかりだけど用語集も付いてるし大丈夫。すべてはつながっている。言葉の不思議な響きにのって、勢いよく読んでしまえば、すごい世界が広がっている。ストカスティックという言葉も好きになってしまう。自分でもびっくりだが、最終的には勇気づけられてしまう。賢者のまじないのように)
時の関節が外れている。タイプの違いに無自覚な人たち同士が、お互いを滅ぼしあっている。ベイトソンが書いた1978年の風景と現代の風景はそれほど変わらない。「そらみたことか」とベイトソンはいうだろう。それは進化とはいわない。自滅という。大いなる自然がやっているような、異なるタイプを歩み寄らせる泥臭い努力こそ尊い。それは昔から、文学と政治、主観と客観、個と全体、あるいは一回限りの人生の経験とビッグデータによる統計的な情報、本書でいうならクレアトゥーラとプレローマといった対立構造で語られてきた。互いにいがみあうのではない。無視するのでもない。自然の大いなるストカスティック・プロセスを見習いながら、私たちもそこに近づくことができるはずじゃないか。
個人的なことをいえば、私は社会政策とか経済学とかにとても冷ややかな人間なのだが、それはそれで行き詰まっている(息が詰まっている)のかもしれないと思った。
ベイトソンに希望をもらった。タイプの違いに、ただ唾を吐き捨てるのではなく、粘り強くタイプとタイプのあいだに橋をかけていくようなイメージでやっていきたいなぁと反省した。たとえば品格と経済をつなげるような――それもやはり昔からいわれれていることで「論語と算盤」みたいなことではあるのだけど(つい、ベイトソン風にいろいろな話題をつなげてみたくなってしまった)。
おもしろかった。息がつまり、元気がなくなったときに、何度でも本書を開いてベイトソンの情熱と言葉に触れたいと思った。
いつかほんとうに「ストカスティックあげるよ」を歌う日を夢見ながら。