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"詩羽"が生まれるまで/フォトエッセイ『POEM』感想

詩羽『POEM』 読了

今月初めて詩羽ちゃんのライブを観た。

水曜日のカンパネラではなく、詩羽のソロ名義だ。

新宿LOFTでのワンマンと、タワレコでのインストアライブの両方を見ることができた。それはそれは心揺さぶられるライブだった。

あの日からずっと気になっていたことがある。

ヒシヒシと伝わってくる彼女の芯の強さ、媚びない雰囲気、うわっつらの嘘を拒み、欺瞞に抗う姿勢、軸のブレない反骨精神はどこからくるのだろう?と。

自宅最寄りの書店ですぐにpoemを買った。撮り下ろし写真×書き下ろし原稿とある通り、フォトエッセイのような分類だと思う。


読了してようやく腑に落ちた。

詩羽を形成したその源に少しだけ触れられた気がする。理解できたとは言わない。言えない。
彼女の壮絶な10代。その生い立ちや家庭環境。人にも期待にも裏切られ続ける孤独な学校生活。こんなふうに文字に起こすとあまりにも陳腐で安っぽい。孤独や壮絶は他人が文字で物語れない。

たまたま同時並行で読んでいた平野啓一郎の小説『本心』とリンクする部分もあった。どんなに身近な人であろうと家族であろうと、他人の本心なんてものはわからない。それでも自分なりに理解や解釈に努めること、その意義を、『本心』で平野さんは「最愛の人の他者性」という言葉を使って教えてくれた。

本書を読んで、「不憫だったね」「今は良かったね」と安易に思うことすら憚れる。絶望は相対的には決してはかれない。絶望はいつだって絶対的に汲まれるべきだ。ただ彼女に対して、同情でも憐憫でもなく、想像力を持てるようになった。それはこの本を読んだからこそである。本書を読んでからあの夜のライブを観ていたならば、あの素敵な歌声はまた別の意味を灯しただろうか。

誕生日に行われた初ワンマンライブ、彼女はMCでサプライズがキライだと言っていたのを思い出す。期待するのが怖くなっても不思議じゃない人生を歩んできたことは読めばわかる。
あのキュートでハッピーな笑顔を見せながら、大勢の人の前に立ってステージで表現をすることがどれだけの日々の果てに実現していることであったか。華々しい今日に至るまでにこれほどまでの飛距離があったのは想像だにしなかった。
今見えている"詩羽ちゃん"は、誰が見捨てても誰が唾棄しようとも、ぎりぎりのところで他の誰でもない、誰よりも彼女自身が自分を見捨てず諦めなかった結果なのだ。ライブはその結果による結晶だったのだ。

10代の、どこにも居場所のない少年少女が読むべきだと思った。
嫌われることは恐い。けど、自分で自分のことを嫌いになるときが誰に嫌われるよりも一番しんどいんだよな。詩羽の言葉で、音楽で、必ず救われる人がいるだろう。救われなくてもこうして報われる日もあるんだと、彼女はステージに立つことで証明し続ける。毎日やなことばかりだよともMCで語っていたから、報われる日は決して日々ではないのだろう。

たとえ連続していなくても、スピッツの『スピカ』でいうところの「幸せは途切れながらも続くのです」ってことで、読者として、あの素晴らしい夜のライブを観た者として、今の詩羽の幸せを願いたい。

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