備忘録:博士が嫌悪した「節約の原理」と幼生転移・先祖返り・分子系統樹に関する覚え書き
<外伝>その11で、ウィリアムソン博士が、自然科学の哲学で知られている「節約の原理」(the principle of parsimony)を嫌悪する一幕があった。まずは、該当箇所を抜き出す。
ロバートが手紙を開いた。
ロバート「博士、私がロンドンにいた時、リチャード・ストラスマン氏は、博士に関する詩を私に送ってきました。彼は、状況を説明すべき、と言っていました。博士が同意するかは、私にはわかりかねますが」
手紙を読む博士。
博士「エリン岬に一人の男..その系統は大胆不敵..これまでにない容易さで木々の間を泳ぐ幼生..オッカムの剃刀が皮むきに必要だ..オッカムの剃刀が..それが何か、私は思い出さなければならない」
ロバート「節約の原理ですよね。最も単純な説明が、最も真実に近い」
ロバートの言葉に、博士は笑顔で答えた。
博士「その通りだ」
水槽の水の音が絶えず聞こえてくる。博士は、話し続ける。
博士「私は、節約の原理は生物学者が自らの都合のために考え出した概念と思うね。物事を簡単にしていくんだ。でも、自然はそうじゃない。予め考えたような力が自然だなんて、信じないね。自然のNという文字は、AからBにいくような最短の方法を考えるんじゃない。トライ&エラー、トライ&エラーでまれに最短の道ができる。だから、節約の原理は、多くの場合は起こり得ないんだ」
博士は、1982年(当時はまだ幼生転移仮説をまだ発表していなかった)に、甲殻類のクモガニ科Majidaeに属するDorhyncus thomsoni(和名が残念ながら存在せず、本論にも和名を載せていない)のゾエア幼生が持つ棘の進化的要因に関して論文を執筆しているが、当時は、以下のように思考を巡らしていた。
・ホモラ科HomolaとDorhyncusのいずれも甲皮と腹部に棘を持つ点で似ているが、形態は大きく異なるので、共通祖先から単純に遺伝した形質である、とは言えない(クモガニ科とホモラ科のいずれも、短尾下目に属するカニの分類になる)。
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・ホモラとクモガニの共通祖先は両者が混合した形質を持っていたが、その子孫であるDorhyncusはホモラの祖先形質を基本とし、これにクモガニの形質が加わった平行進化ではないか(ただし、クモガニのゾエア幼生における尾や肢の形態比較より、博士自ら没とした)
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・共通祖先のゾエア幼生では多くの棘を持っていたかもしれないが、その子孫であるクモガニの一部で変異が起こり、棘を獲得したのではないか。Dorhyncusはそれに当たる。
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・Dorhyncus が14本も棘を持つに至った時期は不明だが、共通祖先から複数の系統に分かれてから、急速な進化が独自に起こったのではないか。
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・額角や眼窩上の棘は、共通祖先の後期ゾエア幼生には元々あったが、これらの形質はおろらくホモラには受け継がれたが、Dorhyncusは受け継がれなかったのだろう。
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・額角は共通祖先にはあったが、クモガニでは一度失われた。しかし、Dorhyncusでは再度発現した。ただし、額角の曲がり方は祖先的な特徴を示している。
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・背中の甲皮の棘は、共通祖先にはあったが、クモガニでは失われている。しかし、Dorhyncusでは単に再度発現しているのではなく、複数の棘に置き換わっている。
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・他のクモガニとDorhyncusで異なる形態になったのは、最近の進化によるものであろうが、その進化によってなぜホモラと類似した形になったのか、わからない。自然選択による収斂進化が起こったのか、ゾエアの棘が生存に有利だったのか(有意な証拠が見出せないと、博士自ら没とした)。
このように、博士は自らの思索を展開していったが、賢明な試行錯誤の後で、<外伝>の上記抜粋の下線部に示したような、「節約の原理」では今回取り上げた形質の喪失や発現を説明できない、という考えを、この原理が当時は広く信頼されパターソン博士という進化生物学の大御所がこの原理を信奉している発現を引用しつつ、述べていた。
幼生転移仮説では、ホモラのゾエア幼生を作る遺伝子が交雑によりDorhyncusに転移されたが、結果生まれた雑種の体内では転移されたホモラの遺伝子全てが機能しなかったものの、棘を作る遺伝子は再び働き出したため、今のような鋭い棘を携えたゾエア幼生になった、という説明であったが、祖先形質の再発現といえば、先祖返りの現象も想起できる。一例をあげるが、書籍「進化のなぜを解明する」のp.125には、500頭に一頭の割合で、実際に体壁の外に突き出た後ろ足を持って生まれてくるクジラがいて、大腿骨、脛骨、腓骨といった陸生動物の主要な下肢骨を備えている。しかも、足と足指を持つものまでいるという記述がある。
また、「節約の原理」で真っ先に想起できるものとして、系統樹作成の方法として最節約法というのがある。分子系統樹においては、対象とする遺伝情報の塩基配列の変化が最も少ない場合を計算して系統樹を作成するのだという。しかし、塩基配列の変化といっても、このようなこともあると思う。A➡Tへの変化が2種間の違いだったという結論が真実であったとして、A➡T➡A➡T(実は2回同じ事が起きた)かもしれないし、A➡C➡TあるいはA➡G➡Tだったかもしれないし、A➡T➡A➡G➡C➡Tだったかもしれない、ということである。最も変化の少ない場合のみ真実になるのなら、A➡T以外の変化が真実だったとしても、明るみに出ることはなくなるだろう。
※以下の書籍に再節約法や問題点に関して記述があると記憶していますが、高価で難解です。現在私の手元には残念ながらありません。
幼生転移にしても、先祖返りにしても、外からの情報の挿入・消失した情報の復活、という内容であることから、「節約の原理」では考慮されない、いわば、回り道である。しかしながら、今見ている生物の世界は、突然変異や資源・繁殖を巡る競争や環境変動など様々な偶発的な出来事に支配されている。そして、生物の世界は遺伝子<細胞<組織<器官<個体<集団<生態系、という多段階の階層構造を成している。したがって、物理的に最も作用の少ない経路で単純明快に事が済むようには、直感的に思えないものである。だからこそ、説明の困難な生物がいて生命現象があるのだろうとも思える。
使用文献
The larval characters of Dorhynchus thomsoni Thomson(Crustacea, Brachyura, Majoidea) and their evolution D.I.WILLIAMSON著 Journal of Natural History, 1982, 16:727-744