見出し画像

<竜>形態変異を生み出す熱ショックタンパク質で描かれた夢について

今回の<竜>は特定の生物ではなく、特定の生体高分子が織りなす生命現象を題材に唱えられた仮説になる。結論としてこの仮説は夢のままだが、Hsp90という高分子が異常を来すことで起きたショウジョウバエの形態異常が今でも忘れられないため、検索して調べに調べた結果、夢に終わってはいるが、面白い考えに出会うことができたので、そのことを身勝手に記述していきたい。


熱ショックタンパク質は生命現象で様々な役割を担っていることは、数多くの研究者より報告がある。その中でも、Hsp90は、1998年のNatureにて発表された報告で、一世を風靡した。シカゴ大学の研究チームによると、Hsp90には発生中の細胞増殖の制御に関する情報伝達タンパク質に結合して安定化させる役割のあることが知られていたが、化学的処理または変異でHsp90の機能を失ったショウジョウバエの形態を観察したところ、眼を失った代わりに触角の生えた個体、肢が短小化しほとんど形成されていない個体、片側の翅のみ翅脈が分厚くなっている個体、など、様々な形態の異常を持つ個体が発見されたのだった。

また、変異さえあれば直ちにこのような異常が生じるわけではなく、Hsp90の遺伝子の変異が揃うこと、一定の温度以上の熱ショックを受ける、といった条件が満たされることで、堰を切ったように、多様な形態異常が生まれてくるのだという。交配実験や熱ショック等の検討の末、研究チームはHsp90の機能と形態異常の関係を、このように考えた。「Hsp90の機能が阻害される時、Hsp90に依存する発生経路は影響を受ける。蓄積されているが表には出ず隠された形態の多様化を、条件が満たされることで解き放つキャパシター(capacitor:コンデンサー、蓄電器の意味)として、Hsp90は存在するのではないか。化石記録に見られる急速な形の多様化は、こうしたメカニズムによって生じたのではないだろうか」


形態形成遺伝子の変異によらない巨視的な形の変化を示したショウジョウバエの変異体の写真に、当時の私は大いに驚かされた。論文2ページ目の半分以上がこれらの写真で飾られたのであった。2020年12月現在に至るまで、シロイヌナズナ、メクラウオ、線虫、等で、変異の抑制に繋がる働きをするHsp90の論文や総説が多数世に出た。これらの中でも私の心を最も動かしたのは、2007年に発表された総説である。1998年のNatureの報告に関わった研究者ら3名で、Hsp90と発生のリモデリング・進化・遺伝子ネットワークの頑健性・変態の進化可能性について考察した。

この「変態の進化可能性」に関して、この2007年までに知られた分子レベルでの知見を統合し、Hsp90が変態の進化にどのように関与してきたか、面白い仮説を彼等は唱えている。Hsp90の機能が衰えると、一酸化窒素合成酵素(NO)を介したHsp90の応答能力、および、ホルモン応答因子を介したHsp90の転写制御が影響を受ける。具体的には、Hsp90が働くタイミング、代謝回転、ステロイドレセプター複合体に、影響が生じる。これらの変化により、発生ネットワークのリモデリングやヘテロクロニーの進化が起ったのではないか。いずれも、変態の進化には必要な生命現象である。

更に、3名の共著者にはホヤの発生様式を研究対象としている者もいたため、ホヤを例に挙げ、前述のHsp90の機能減衰がもたらすシグナル伝達の強弱の変動が、成体の一部より生じた芽体から成体になる直接発生、および、卵から孵化したオタマジャクシ幼生が変態して成体になる間接発生、といった発生様式の相互的な転換をもたらしたのではないか、と仮説を図示していた。


この仮説は、個人的に海産無脊椎動物の発生様式の進化に興味を持っていた私にとっては、この上なく気持ちの良いものだった。しかし、この仮説が発展または検証された報告を、見つけることは出来なかったのである。ただし、彼等も2007年までに得られた報告を根拠にしていることもあるので、幾つか示したい。

2002年に、化学処理したホヤおよびウニの胚を、Hsp90機能を抑制することで胚発生に及んだ影響について報告がされていた。一部の細胞の動きが停止して発生段階を止めるというものだった。実験に用いたウニでは原口の先端に本来ある体腔細胞が見られないため、中期胞胚の段階で停止していると考えられ、ホヤでは色素の位置が対照とは異なり、色素細胞を持たない原腸胚の段階で停止していると考えられた。

また、2006年には、Hsp90とカンブリア大爆発について地球の歴史から考察した発表があった。原生代後期に起った全地球凍結(スノーボールアース)が当時の生物のHsp90にストレスとなり、この機能の多様かを引き起こし、カンブリア紀の生物多様化につながったのではないか、というのだ。(これにはチロキシンレセプターの変異体がHsp90と相互作用することを発見した1990年代の報告が背景にあるが、詳細は省略する)


Hsp90または別の熱ショックタンパク質が低温刺激で様々な形態異常を起こしたという報告については、私は見つけ出すことが出来なかった。ただし、地球の歴史において過去に起ったとしたら、原生代後期の全地球凍結がもたらしたHsp90の機能減衰に加え、カンブリア紀の海は酸性であったことでHsp90の機能減衰が過激化し、形態異常=形態多様化への敷居が一気に低くなったのかもしれない。なおかつ、私が「非公式の卒業論文」で追い求め続けた、酸性の水環境による卵膜の剥離で容易になった系統の離れた動物の精子との交雑=雑種形成の機会も激増する現象との相乗効果があったとすれば、生存に不利な形態や染色体異常による死屍累々も凄まじいことにはなったであろうが、古代の海で生命形態の百花繚乱はあったかもしれない。そう考えずにはいられない。私の妄想は、そんな所である。



使用文献

Hsp90 as a capacitor for morphological evolution Suzanne L. Rutherfordら著 NATURE VOL.396 26 NOVEMBER 1998

The Hsp90 Capacitor, Developmental Remodeling, and Evolution : The Robustness of Gene Networks and the Curious Evolvability of Metamorphosis Suzannah Rutherfordら著 Critical Reviews in Biochemistry and Molecular Biology, 42:335-372, 2007

HSP90 function is required for morphogenesis in ascidian and echinoid embryos Cory D. Bishopら著 Development Genes and Evolution (2002) 212:70-80

Evolution of metamorphosis : role of environment on expression of mutant nuclear receptors and other signal-transduction proteins Michael E.Baker著 Integrative and Comparative Biology, volume 46, number 6, pp.808-814 2006

サポートは皆様の自由なご意志に委ねています。