本当の「学び」を目指して 〜「他者参照」によって自ら働きかける学びを生む〜
強制は学びにつながるのか?
学校現場では、「させること」が必要だ。「学習規律」「学校スタンダード」「宿題」…。どれも「させること」だ。
ところで、この「させること」は、本当に学びになるのだろうか。
自分の体験から考える
自分は、これまで「学校社会」に適応してきた人間だ。
委員長、児童会副会長、生徒会長、部長、ゼミ長などなど、小学校から大学まで、「〇〇長」という名前のつくものについていなかったことは、ほとんどない。
どれも、自分から立候補してきた。
先輩や先生の話や打診も、基本的に「YES」と答えてきた。
体育会系だと自認している私は、「強制」は「学びに必要なこと」だと考えてきた。つまり、自分からやるなんていう人間は、そんなに多くはなく、そこにはある程度の強制が必要だということだ。
私は、体育会系だったが、自分から進んで筋トレやランニングなどが続いたことがあまりない。もちろん、練習はそこそこにはやったが、自主的な練習はあまり多くはなかったように感じる。
だから、「練習日」が必要だと思っていた。教師になってからも、うまく学びに取り組めない子は、「強制」でもいいからやらせるようにしてきた。
たしかに、強制された子たちは、やらないよりは、やったほうがいいから力がつく。テストの点数も上がる場合がほとんどだった。
今までの「学び」は「学び」だったのだろうか。
私の「学び観」を変えた本がある。それが、以下の本だ。
この本に以下の文章があった。これが、私の学び観をひっくり返させた言葉だ。
「学生が教師からの情報に対して、自ら働きかける、そして掘り下げる=身体化する、拡げる=関連付ける、それを使いながら考える、そうした構築のための努力なしには知識は生み出されない。」
一番の驚きは、「自ら働きかける」という言葉だった。そして、思い直した。自分は学習に「自ら働きかける」ということがあっただろうか。
今まで、自分は「学んでいなかった」のではないか?
〇〇高校に入ったらいいかな。〇〇大学に入るといいな。
そう思いながら、私は学んでいた。
だから、私はテストの点数のために、学んでいた。
テストという外的要因によって、学んでいた私は、本当に「自ら働きかける学び」をしていただろうか。
小学校から高校まで、時間割があり、それに即して行動し、学んでいた。
この時間割も外から与えられたものである。私は、その時間割の授業に対して、「自ら働きかける」ことはなかっただろう。許されるならば、休みたいと思ったことも一度や二度ではない。
より自由度が高まった大学。講義も選べる。ただし、選んだのは必修科目と、なんだか単位が取りやすそうな講義。本当に自分のために学んだことは、なかっただろう。
教員になった。いろいろとうまくいかなくて、本を読む必要に駆られた。それは、「失敗したくない」という思いからだった。これは、他者や周りからの眼があったからだろう。これもまた、本当に「自ら働きかける」学びではなかっただろう。
ようやっと訪れた自分の「学び」
最近、研修の提案をすることが増えてきた。その中で、「こんなことをしたい」という思いを叶えるために本を読むことが増えてきた。そして、その目的の中で、書籍や資料にあたると、新たな発見が生まれてくるようになった。
そうなると、学びが楽しいものになる。こうすると、あれほど以前まで入らなかった言葉たちが頭に入るようになる。
最近始めた日記もそうだ。日記を書くことで自分との対話となり、いろいろなことが整理される。
その延長線上で、このnoteも書くようにしてみている。今はまだ2日目だけれど。
ついに、私は「自ら働きかける」学びの第一歩を踏んだのだ。
では、子どもの「学び」は、どうなのか
子どもが「自ら働きかける」ような学びを創るにはどうすればよいのか。
まずは、導入で「問い」を生み出すようにしたい。これは、「学習課題」という形になる。問いがあれば、それを解決したいという思いが生まれ、「自ら働きかける」ようになるきっかけとなるだろう。
他には、「見通し」をもたせることがあるだろう。
学習のゴールは何か、それを学ぶことにどんな価値があるのか。それを腹落ちさせ、そのために何が使え、どのように学ぶことができるのかを伝えることだ。
最後に最も大切なのは、「強制を限りなく少なくさせること」だろう。あたかも、その子が自ら考えたいと思うようにする。そこが分かれ道だ。
「学び」を創るICT活用:「他者参照」
この学びを創り出すために、いま意識しているのが、「他者参照」を意識したICT活用だ。
「他者参照」が万能ではない。しかし、「他者参照」があることで、子どもたちは、他者の意見を見て考えることができる。
それは、誰かから教えてもらったものではなく、「自分の発見」となる。自分で発見したとなれば、そこに意欲も湧くだろう。
自分が関与する部分が大きくなるので、きっと今までとは違う「学び」になるはずだ。