自分の意思を持ち、「嫌う」をできるようになったこと。
私は人を嫌うことが苦手だ。だからこそ、意識的に人を嫌いにならないと、いろんな人の意見を吸収しすぎて、自分軸を持てなくなってしまう。
「fumiさんってこうだよね」と、私のことを外側からしか見ていないくせに、勝手に語り出す人が、よくいる。
嫌い、と思う。嫌いと思うんだけど、そうやって言葉にして伝えてくれる存在というのは、なかなか貴重だということは、忘れてはならない。
会話の中で、その人が助言をしてくれたり、私の人生や性格に口出しをしてくることがある。その人の話に、私は耳を傾け、グッと聴く。その時は、その人の意見に心底感心し、すごいなぁと思う。目上の人であれば、なおさら。
でも、帰って、しばらく時間が経ってみると、次第に、「あの人の言い方、なんだか自分を見下した言い方をしてたような気がするぞ?」と、勝手にむかつき始める。
そして「うるせえ黙りやがれ」「私はこれでいいんだ」と思いながら、その考えは言葉になる。メモ帳にブワッと、自分ならこう思う!こうだ!という自分の考えを、つらつらを書き出す。
ちょっぴり、愚痴と暴言も混じっているが、自分の意思を明確にすることができる。自分の意思を明確にできると、他人の意見と自分の感覚が合わなかったとしても、それはそれで「そういう人もいるんだな〜」と、受け入れたりする。自分も相手も肯定できる。
だから、人と話すことは、案外悪くないかもしれないと、ようやく最近、思えるようになった。
ちなみに、その間、向こうからしてみれば、私は相手にとって「内向的で控えめな子だけど、自分の話を気持ちよく聴いてくれる聞き上手な人だ」という印象しか持っていないんだろうな。そうと思うと、とってもおかしい。強気に生きるというのは、私にとってこういうこと。
アドバイスなんてものは、聴いている間は、相手に勝手に気持ちよく喋らせておいて、イチ意見としていただいて、引き出しのどこかにしまっておけばいいと思う。あれってどこやったっけ、となくしてしまえるくらい、ぞんざいに扱ってもいい。心の中でならいくらでも。
もちろん、表面的には、礼儀と敬意を払って、迷惑をかけてはいけない。それさえ守っていれば、何を考えたっていいのだ、そうやって自分の身は自分で守りながら生き抜いていくことも、また必要。
こちらは何も求めていないのに、助言をしたがる人って一定数いるし、もしかしたら自分もその中に入っていることがあるかもしれない。人との距離感って難しい。
人との関わり方に悩んだら、とりあえず、「うっせえわ!」と相手を自分の心から遠ざけてみるといいなと、最近わかった。
一旦遠かった後、冷静になった時に、いつか「この行動をすると、こんな見られ方があるんだな〜そういえば」くらいの学びの種にしても良いだろう。
以前まで、note、月イチの更新という目標が習慣になって続いていたのだが、それがある時から途切れてしまった。なんとな〜く、放置していた間、私は大学の勉強に励み、AやSの成績を収めたくらい頑張った、ということは、ここに記しておきたい。
昨日、とある知人にnoteのアカウントを教えてみた。その際、「最近サボってるんだけどやってるよ」と言って伝えたら、遠慮なしにズバッと「めっちゃサボってんじゃん」と言われた。そうなんだけど。その通りなんだけど。
いや、違うのよ。自分で言うのはいいの、人に言われるのは嫌なの。でも、お陰で書く気になったので許すことにする。お前は書いてないだろ!!私のが書いてるだろ!!ほれみろ!!と、ここでこっそり煽り返すことにしてやる。ふん。
自分で言ったくせに、その時は言い返す言葉もなく。悔しさと恥ずかしさに苛まれたので、こんちくしょうと今日は自分の最近の考えをnoteを書くことにした。
もちろん、今日書いているのは、それだけが理由ではない。
今日は、生演奏を聴いてきた、しかも最高のやつだ。身バレ防止のため詳しくは言えないのだけど、いわゆる胸アツ、というやつである。
(音楽のことになると、途端に語彙力がなくなる癖はなんとかしたい。)
生演奏、最高の演出を目の前にして、心にボワッと熱がついて、最近なんとなく存在しているだけだった意欲が、掻き立てられる。やっぱり、私はコンテンツを消費する側ではなく、生み出す側の人間でありたいと強く思った。
電車で帰宅しながらメモ帳に考えを書いていて、それでもまだ足りず。お風呂に入って、髪を乾かして、その間も、書きたくて仕方なかった。
ああ今日は絶対note書く日だと思った。ずっと自分の中で言葉が鳴り止まなかった。
私の文章は、中身もなく、ただ自分の考えを垂れ流すみたいな、とりあえず書き出して、できたものを気持ち程度、綺麗に整える。つまらない文章かもしれない。
以前まで、私は読みやすい文章にしようと、考えながら書いてみたりもしていた。だが、それでは書くことがつまらなくなってしまった。
駄文で上等。いいじゃない、別に、と開き直って、とりあえず今のありのままの私を書き出してみる。
私に名文なんて求められていない。ただ、心の中にある、普段じゃ絶対に言語化できない部分を、ひたすら書くことの快感。それを味わえたらいい。そんな身勝手な文章を投下することを、どうか許してほしい。今の私の書く文章というのは、これが限界なのだ。
自分を作ってくれるものというものは、回り道しながら気づけばここにあるものである。
2年前、自分の中でとてもショックなことが起きた。それで心がポッキリと折れてしまい、創作意欲とか熱意とか夢とかが冷めてしまった。
それまで、表現したいというエネルギーになっていたものが自分の中から消え失せて、堕落した生活を送ってしまっていた。
しかし、今年に入ってから、将来について考えるようになり、それから、私はやはり探求したり、感じたり考えたり、言語化することが心の底から楽しくて好きなことだな、と思うようになった。
noteを書けなかった2年間、私は書くことではなく、生きることそのものをたくさん味わい、踏ん張りながら、自分と闘ってきた時期を過ごしていた。最近、そうやって自分自身を肯定できる強さを持てるようになった。
培ったものは無駄ではない。今こうして書くことが、無駄じゃないという、なによりの証になれたら、私は嬉しい。
久しぶりに書き始めてみると、自分の文章が、以前と変わったな〜と、我ながら思う。いや、自分だからこそ、だろうか。なんていうか、以前にまして、強気。
自分の軸をぶれさせないために、心の奥の方にが、自分の言葉を具現化したがっている、というのだろうか。大人というものに、近づいたり関わったりすればするほど、不明確なものがたくさんあって、嫌になってくる。だからこそ、私には「言葉の世界」が必要なのだ。
ここでは、何者でなくていい。ただ言葉を持つだけで、許される。言葉を書く自分は、普段の私よりも、ずっと自由に息をすることができる。気楽で、ある意味、癒しでもあるのだ。
それだけではない。最近、そこに新しい感覚が加わった。「言葉を持つ」という感覚だ。その感覚が、自分の中で湧き起こり始めたような気がする。
自分の言葉を持つ。他人からの影響を受ける、人に教えてもらう、それだけでなく、自分の意志を持って、自分の考えを持って、自分で自分を励まし、鼓舞し、奮い立たせながら、自分で見つけ、勝ち取っていく。そういうパワフルさを持ちながら、這い上がっていく。そんな生き方をしていけたら良いなと、今は、強く思う。