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ダブルケア時代を振り返ってみる

毎日note32日め 今日も訪問していただき、ありがとうございます😊!

最初に謝っておきます。暗い話が苦手なかたは、すみません。

私は24歳の時に結婚してから、6人の身内の介護に関わってきました。

最初は義父。まさかこんなにいろんな病気をもっているとは、結婚する前は全く思いもよりませんでした。

何しろ手術を10回以上しているという…。私は看護師だったこともあり、子どもができる前から妊娠中、そして育児中も絶え間なく、義父の入院の付き添いをしてきました。

亡くなるまでの最後の2年間は寝たきりになり、介護保険を利用しての在宅介護もしました。(亡くなったときは長男小学2年生、次男は2歳。私は34歳)

その3年前には、私の祖母に大腸がんが見つかったときはすでに手遅れで、手術はできない末期の状態でした。

その数年前から母が病気で、祖母の面倒を見る人がいなくて、仕方なく田舎の療養型病院に入院していたのですが、祖母の変わり果てた姿を見た兄が、自宅に連れて帰りたいといい、私もそれに同意して、介護保険を利用して手続きをし、在宅看取りをしました。

このとき初めて、私はこの祖母の最期を看取るために、看護師になったんだと理解しました。長くなるのでこれ以上は語りませんが、まるでドラマをみているかのような、見事な最期の瞬間でした。(当時年齢、祖母は85歳。長男が幼稚園年長、次男は私のお腹の中にいました。ということは今から20年前で私は31歳。)巳年の祖母と同じ干支の次男は、私の最愛の祖母の生まれ代わりではないかと思うぐらいです。

祖母が亡くなった翌年、今度は私の父が突然に亡くなりました。65歳でした。(当時長男が小学一年生、次男は10ヶ月。私は32歳) このときほど自分を責めたことはありませんでした。

それというのも、母の介護をしていた父がトイレで倒れていて、それを見つけてくれたのがデイサービスに行く母を迎えに来てくれた看護師さんで、発見が遅かったから。私が知らせを受けて駆けつけたときは意識がかろうじてあったものの、その数時間後に意識がなくなり、呼吸が止まった時、人工呼吸器をつけるかどうかの選択を迫られました。

母は50歳を前にして脳の病気になり、父や兄とともにいろんな病院に連れていきましたが、有効な治療法がなく、病気は徐々に進行していきました。

父が突然に亡くなってしまったので、そのあとがまた大変なことでした。

私はそれでなくても病気の義父をみていたし、母の世話を引き受けることはできずに、施設でお世話になることになりました。

その後、紆余曲折あり、県外で働いていた兄が仕事を辞めて、父の代わりに母の面倒をみるということになり、それ以降は実家のある施設で長いことお世話になっています。早いもので、病気が発症してから22年ほどになります。

義父が亡くなったあとは、今度は義母が認知症になり、1人暮らしができなくて同居することになり、10年超えて現在92歳です。

それだけにとどまらず(苦笑)この義母の姉が独身で、こちらも認知症になり、大阪にいた頃からずっと遠距離介護(病院受診付き添いや介護サポート)をしてきて、こちらに引き取り施設入居など、14年ほどいろんなお世話をして今年の4月、コロナ禍の中で94歳の生涯を閉じました。

当時は「ダブルケア」なんて言葉はありませんでしたが、高齢化社会の問題に早くから関わってきました。

これらの私が経てきた怒涛のような出来事も、認知症義母の世話と仕事とを両立できなくて心身を病み、つぶれてしまった人生最大の挫折から立ち上がってきた体験も、また今後の執筆活動に活かしていきたいと考えています。

今日も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。m(_ _)m





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