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邪馬台国九州説・大和説・東遷説:根拠と弱点(中級編)

邪馬台国問題の入門書としては、僕は『邪馬台国100問勝負』(杉並良太郎+歴史文化100問委員会、出窓社、1999年)がお勧めだと思います。

筆者の杉並さんは作家ですので、特に第2章「魏志倭人伝の読み方」、第3章「邪馬台国の所在地」、第4章「女王卑弥呼の正体」は邪馬台国問題の知識がなくても、わかりやすいです。ただ、この本はやや古く、箸墓古墳の実年代といったテーマは取り上げられていません(歴博の発表は2009年)。第5章「それからの邪馬台国」になると、東遷説に偏った説明になっています。

ネットで読める解説としては、邪馬台国の会HPの「邪馬台国は、どこにあった?」が、候補地、九州説・大和説(畿内説)を支持する学者、九州説・大和説の主張、それぞれの反論などが網羅され整理されています。やや上級者向けです。

魏志倭人伝の現代語訳はいろいろな書籍に出ていますが、僕は『魏志倭人伝の謎を解く』(渡邉義浩、中公新書、2012年)の現代語訳が、誤記や水行陸行などの扱いが無理な解釈を加えていなくて中立的に読めるので、いつも参照しています。

僕は邪馬台国問題を理解するための「中級編」を書いてみようと思いました。簡潔にまとめるために、九州説・大和説・東遷説の「根拠」と「弱点」、それに対する「反論」、さらにその反論に対する「再反論」を一覧表にしました。この一覧表を見れば邪馬台国問題の論点が理解できます。永久保存版の価値があると思います。

ある程度、邪馬台国問題の知識がある人向けですが、上級編ほど難しくならないように心がけました。項目数は合計で53項目と、思いのほか多くなり、一覧表の総字数は400字×約30枚になりました。ある説の根拠が、別の説の弱点になることもあり、一部に重複があります。

この記事の構成は目次のとおりです。「根拠」「弱点」の後ろに記載したキーワードが主な項目になります。


※僕はこれまでのnote記事では「近畿説」と呼んできましたが、近畿説(畿内説)はほぼ大和(奈良県)の纒向[まきむく]遺跡に絞られるので、これからは「大和説」と呼ぶことにします。

※大和説は、三角縁神獣鏡とそれ以外で一覧表を分けました。「根拠」「弱点」とも異質だからです。

※「東遷説」とは九州説の1つです。この記事では、九州にあった邪馬台国が、卑弥呼の死後、台与の時代に政権を東に移動させ、近畿を征服してヤマト王権を立てた説とします。

※それぞれの根拠と弱点、反論・再反論の中には、出典はなく、僕が考えたものもあります。

※この記事のメインはあくまで一覧表ですが、一覧表だけでは十分理解できない個所(★印)は、章末で補足説明しました。参考として、書籍や僕のこれまでのnote記事へのリンクを付けているものもあります。

※一覧表は第1~4章では各説の「根拠」「弱点」ごとに分割してあります。記事の最後に、すべてを合体して、全体版を掲載しています。

※なお、僕は邪馬台国問題は現段階では結論は出ないと思っています。魏志倭人伝は倭国を「遠い南の大国」に脚色していて正確な情報が記述されていないこと、考古学的にも決め手となる遺物・遺構が出ていないことが理由です。「これで決着」などという説はありえません。ただ、少なくとも纒向が卑弥呼の都だったということはないと思っています。僕なりに可能性が高いと思う説はもっていますが、まだ十分整理できておらず、未発表です。

※トップ画像:邪馬台国論争(イラストACから「畿内」を「大和」に改変)。この記事にぴったりのイラストが10月に登場しました。

(最終更新2024/10/11)

第1章 九州説

根拠:1万2000里(残り1500里)/東に海/鉄・絹多い/大陸との交流

★1 1万2000里はつくられた数字

1万2000里(伊都国から残り1500里)は九州説の最大の根拠です。「1万2000里」という数字はどこから出てきたのか、3つの説があります。

  • 松本清張さんの観念的数字説

  • 仁藤淳史さん(歴博)の古代中国世界観説

  • 岡田英弘さん(東京外国語大学)の大月氏国同列説

僕は岡田さんの説に賛成です。岡田さんは、魏志倭人伝は下記のような背景があり、「1万2000里」と記述したとしています。

  • 魏志倭人伝は280年代に西晋のもとで陳寿[ちんじゅ]によって書かれた

  • 西晋の創業者は司馬懿[しば・い]である。239年の卑弥呼の遣使は司馬懿の功績であり、陳寿はその功績を讃える必要があった

  • 一方、229年の大月氏国[だいげっしこく=インド北部]の魏への遣使は、司馬懿のライバルだった曹真[そうしん]の功績である

  • 古代中国では、遣使してきた国が遠ければ遠いほど、皇帝の徳が高いとされていた

  • 司馬懿の功績を讃えるためには、倭国は大月氏国よりも遠い国でなければならなかった

  • 洛陽から大月氏国は1万6370里である

  • 洛陽から楽浪郡は5000里だから、帯方郡から女王国は1万2000里と記述された(見る人が見れば、洛陽から女王国は1万7000里以上とわかる)

他の説も含め、下記の記事で詳しく解説しています。

★2 1里=70~90mの短里で書かれたか?

僕は短里説には賛成しません。1里70~90mという基準があったにしては、里数のばらつきが大きいからです。僕は1万2000里という数字が先にあり、国と国との間の里数が大ざっぱに(適当に)割り振られたと推定しています。ただし、里数は正しくなくても、国の順番(位置関係)は正しく、女王国が伊都国から遠くない場所にあったことは事実だと思います。

★3 鉄・絹などの出土数は九州北部が圧倒

安本美典[びてん]さん(邪馬台国の会主宰)の説です。僕は鉄・絹や南方系の風習は邪馬台国の描写ではないと思っているので、安本さんの説には賛成しません(詳しい理由は一覧表参照)。

★4 楽浪系土器

楽浪[らくろう]郡は現在の平壌です。楽浪系土器の出土数が多いのは、主に糸島平野、福岡平野です。伊都国、奴国の領域になります。楽浪郡には古代中国の出先機関が置かれました。楽浪郡を分割して、南に置かれたのが帯方[たいほう]郡です。魏志倭人伝の行程は帯方郡から始まっています。

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