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「日本三大怨霊とは?」

日本三大怨霊(菅原道真、平将門、崇徳上皇)は、彼らの死後も災いをもたらす強い怨念が信じられた霊的存在です。三人の怨霊が生まれた背景には、権力闘争、政治的陰謀、理不尽な運命が深く関わっています。彼らの怨念は、時代を超えて伝説となり、日本の歴史や宗教、文化に大きな影響を与えました。


1. 菅原道真(すがわら の みちざね)

背景: 菅原道真(845年 - 903年)は、平安時代の学者、文人、政治家であり、特に漢詩や書に優れた才能を持っていました。彼は天皇に仕え、従二位・右大臣にまで昇進しましたが、藤原氏との政治的対立により、無実の罪で大宰府(九州)に左遷されました。特に、藤原時平(ふじわら の ときひら)の陰謀によって道真は都から追放され、その後、大宰府で失意の中亡くなりました。

怨霊としての逸話: 道真の死後、都では次々に災難が起こりました。たとえば、雷が清涼殿(せいりょうでん)を直撃して藤原時平を含む貴族たちが死亡したり、疫病が広がったりしました。道真の怨霊による災いと恐れた朝廷は、道真を鎮めるために、919年に彼を名誉回復し、さらには北野天満宮(きたのてんまんぐう)を建立して彼を天神(学問の神)として祀ることにしました。この天神信仰は全国に広まり、今でも学生や受験生が学業成就を祈願するために参拝しています。

具体的なエピソード: 道真の怨霊は、「天変地異や疫病の原因」として恐れられました。清涼殿落雷事件(930年)はその象徴的な例で、都を襲った激しい雷雨の中、宮中に雷が落ち、藤原時平を含む高位の官人が命を落としました。この事件が道真の怨霊の仕業とされ、人々はますます道真を恐れたと伝えられています。


2. 平将門(たいら の まさかど)

背景: 平将門(903年 - 940年)は、平安時代中期の武士であり、関東地方の豪族として力を持っていました。彼は領土の拡大を目指し、関東一帯を支配するための反乱を起こし、自ら「新皇(しんのう)」を名乗って独立を宣言しました。これは朝廷に対する重大な反逆行為であり、将門は最終的に討伐され、その首は京都に運ばれ晒されました。

怨霊としての逸話: 将門の死後、彼の怨念が京都や関東地方で災厄を引き起こすという伝説が広まりました。最も有名な逸話は、将門の首が京都から飛んで関東に戻り、現在の東京都大手町に落ちたというものです。その場所には「将門の首塚」が作られました。江戸時代から現代に至るまで、この首塚には特別な神聖さが感じられ、工事などが行われる際には不吉な出来事が起こるとされ、恐れられています。

具体的なエピソード: 1923年の関東大震災の後、首塚の近くで建設工事を行おうとした際に、工事関係者に次々と不幸が訪れたと言われています。そのため、工事は中止され、首塚はそのまま残されました。また、1945年の第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が首塚の土地に建設を進めようとした際にも同様の不吉な出来事がありました。将門の怨霊は「関東を守る存在」としても信じられており、特に地元では深い敬意を集めています。

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