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「ことばの白地図を歩く 翻訳と魔法のあいだ」 奈倉有里

シリーズあいだで考える  創元社

著者と野崎歓氏とのオンライン対談視聴チケット付

トルストイと異文化と失敗

祖父と手を繋いで歩いていた写真を、後年、トルストイと孫の写真と見比べて見ていた時に、祖父がトルストイが孫の手を直と触りたかったために手袋脱いでいたのに気づくシーンが印象的。
(2023 06/06)

昨夜読んだところから。
「異文化」という単語を目にしたら警戒すべき?
奈倉氏は文化というものを「人と人がなにかしらの共通の様式を用いて理解しあうための営みである」(p54)と捉えている。そして2008年から東京都教育委員会が配布しているという「日本の伝統・文化理解教育の推進」という資料から…

 「異文化」の対義語がどうして「自文化」でも「自分の文化でもなく「自国の文化」なのか。この「国」という概念はどこからなんのためにでてきたのか。こうした箇所に根拠なく暗黙の了解のように侵入してくる概念には、およそなんらかの支配的で扇動的な思惑がある。
(p56-57)


もちろんこのあとの第6-8節(クエスト?)では、自らの文化と異なる文化(奈倉氏にとってはロシアの文化)について考える記述(衣食住)が続く。文化が画一的なものでも、国単位のものでもなく、その場その場の実践的なものであるという考えは、先のp54の文化の定義によるものだろう。
「あいだ新聞」という、挟み込まれている小紙には以下のような踏み込んだ記述もある。

 笑う笑わない、という問題は、当人からしてみれば「恥ずかしい」という感情につながる。他人を笑わない(表にださないのではなく、心のなかでも笑わない)ことを徹底していると、同時にこの「恥ずかしい」という感情もなくなる。恥などというものはまったく不要な感情なので、なくていいと思う。
 ところがよくないことに、就職活動などでは「あなたの失敗と、それを乗り越えた体験は」などと訊かれることもある。なぜそんな質問がなされるのかといえば、失敗とか恥とかいう概念は、人に協調を強いる側にとってたいへん都合のよいものだからだ。そしてその問いへの回答は、当人が「失敗」とみなされる行為をしたときのモデルケースとして捉えられる。


この資料の編集部?が依頼した「10代の失敗」という記事の回答がこの文章なのだから、奈倉氏、結構骨太な人でもある。
(2023 06/18)

翻訳の向かう先

第4章、書かれた作品には、当時どこの読者に向けたものかが必ずあるというところから。

 ことばの向かう先が違っていて、それは当初の作者の想定を超えて、現在の読者が作品を読んだときの読書感覚にも違いをもたらす。そして翻訳者はいかにしてその感覚を伝えるかという課題を負っている。
(p121)


作品には想定された読者がいるというところまでは認識しているけれど、その感覚を翻訳まで伝えていくべきという視点はなかったかも。現代作品でない限り、その想定読者は既に存在していないわけだから、ある程度のずらしが必要になってくる。

次のクエスト?の奈倉流翻訳の仕方は、まず20回くらいは原著を読む、原著の言葉で読む、朗読とかあれば(シーシキンの「手紙」には著者本人の朗読があったという)それも併用する、そのうち日本語が頭の中に出てくるようになったら、翻訳を始める、終わったら既訳や他言語への翻訳があれば参照しそれらと対話する…といった具合。
(2023 06/20)

今日読み終え。
この人の翻訳のスタンスは、原文で母語話者達が読むような読書体験を、翻訳でも行う、というもの。だからいわゆる「直訳調」とか「ルビ」(原語ではルビがあることはないのだから)とかは論外。クエスト11のモデストフ先生の翻訳がそれに近いのかな。とにかく、この場合一番翻訳者に必要なのは、翻訳者の母国語表現能力。
あとは、7/8の野崎歓氏とのトークイベント待ち。
(2023 06/22)

野崎歓とのオンライン対談より


奈倉氏のゴーリキー文学大学の写真(元々は貴族の御屋敷だそう、ロシアで初めてのマクドナルドも近いらしい)を見ながら、1時間半(zoomのオンライン)。シーシキンを成田空港に迎えに行った時の写真も。ロシアの作家は翻訳者との交渉を好み、翻訳者側で何も無いと逆に不審がるという。また、奈倉氏は日本語で読んできた翻訳作品よりもロシア語で読む作品(及びロシア語への翻訳作品)の方が多いという。
(2023 07/09)

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