「物語の哲学」 野家啓一
岩波現代文庫 岩波書店
書簡体小説の理由
少しだけ「物語の哲学」から。
初期の小説作品の多くが書簡体小説のかたちをとっているのはこうした理由だからだという。一方、柳田やベンヤミンの指摘にもある通り、共同体の公共空間の「物語」特に口承のものは衰微していった。
(2017 02/15)
第1章第2節「声と文字」
柳田國男「音声言語」、「文字言語」、そして「口承言語」。
フッサールの「幾何学の起源」で幾何学定理が如何にして超越的意味を持ちうるものになったのか。ここでは幾何学定理が純粋な意味で「客観的」かを問うのではなく(暗に否定されているとは思うが)、それがどのような道筋で 可能となったのかを問うことになる。
(言語の起源として、口承言語を想定するのかと思ったけどここではそうではない、またここでのフッサールの議論は、考古学的、人類学的に進めるものではないし、本当に「起源」が目的だったわけでもない)
フッサールは幾何学のみならず人間共同体における伝達と知識の伝播を、音声言語から文字言語へ、その言語理解共同体の伝播とみなしている。ここでフッサールは直観ではなく「解釈学的明証性」へ踏み出す、と野家氏は述べている。「間主観化」(厳密な意味は?)と「歴史化」がその方向である、という。口承言語は出番なし。
しかし、伝達手段が音声から文字になると、一旦テクストにその内容を「沈澱」させ、それを読むものが「再活性化」することによって伝達されていく。が、そこには「意味形成体の自己同一性を脅かす「不断の危険」、「同一性の危機」」が潜んでいる。これを回避するには、学者たちの努力が必要。これはクーンとも通じるのではないか。
というのがフッサールの議論なのだけれど、野家氏はこう述べる。
こうも言ってしまうと元も子もないとも思うけれど、フッサールは科学哲学に解釈学を導入して修正を図った、これをもっと取り入れようとしたのが野家氏の立場、ということでいいのかな。この本の第5章も含めて、科学哲学が「本丸」な野家氏に期待。
第1章第3節「「話者の死」から「作者の死」へ」
概略:ルソー、オースティン対(先駆者として先のフッサール)デリダ、バルト。その対立点は
この意味ではオースティンも話者の「意図」を汲んでいる。オースティンの議論は全体的には前提となる慣習を重視しているが、言語行為が適切に遂行されるための最後の項目として「意図」を持ってくる。これは舞台であったり文学作品の朗読であったりする場合は、「通常の状況」ではない、としているから。適切な言語行為は「一人称単数、直接法、能動態、現在形」の文章に還元が可能という。デリダはここをついてくるわけだ。
受信者が不在ならば、発信者も不在であることも前提とされている。
さて、デリダはともかく、「物語り論」の野家氏としては、先のオースティンが舞台や朗読(そして騙り)を排除しているのが気になるところ。
オブセッション2回目(笑)
それはともかく、これまで漠然としていた、この「物語の哲学」という本の目的(意図?)がここではっきりする。ここで一言付け加えると、野家氏の専門の一つはオースティンとヴィトゲンシュタインの言語哲学(もう一つが科学哲学)。
さてさて、話者が死ぬなら作者も死ぬ。もちろんバルト。
フーコーの「人間の終焉」もそうだけど、変に文学的素養があるから、こういった言葉が一人歩きしてしまう傾向ある。作者の意図、読者の妄想、それ取り除くと何が・・・
それはともかく(で、いいのか)、読者も〈死〉でなぜいけないのか?前のページにある「無限に増殖する意味は決して収斂することなく、ただ拡散するにまかされている」でもいいのではないか。バルトや野家氏は「磁場」のようなことを言いたいのだろうけれど、それならドーキンスの「利己的な遺伝子」のような(ミームだっけ?)とどう違う?
といろいろ2節分。30ページちょっとの文量読んで書いてきたけど、面白いけど、なんかこれだけで哲学者の概要や主張、それから構図などを鵜呑みにしそうになってしまうと、思う。フッサールやデリダ、オースティンなどなど、とっかかりにはなるけど、野家氏がここで利用しようとしているのとは、また別の側面が必ずあるはず。
ま、無限に増殖する意味の中を漂うだけでも、充分心地よいのだけれどね。
(ここまで昨日読んだ分)
(2022 07/26)
小林秀雄とマッハ
「物語の哲学」昨日は第2章。
これまでのまとめというかなんというか。小林秀雄の「無常といふ事」にもこれに近いこと書いてあるという。
第2章読み終わり。
今日から第3章。
歴史哲学…歴史の側面図と正面図。側面図は年表・数直線的表現。一方、正面図はマッハの自画像のように、自己から歴史を見て語る…そう、物語行為。
問題はどうやって?の方法論と、そもそもその語られた歴史に意味があるのか(その語る人がなんらかのヒューリスティックや偏向などで語っている場合、それを論じるのは歴史学なのか社会学なのか…)。ともかく、第3章始まったばかりだから、もう少し様子をみよう。
それはともかく、各節の冒頭の引用、何か自分の好みを知っているかのようなセレクト(笑)。
ベンヤミンと柳田國男
月曜日昼以降読んで、火曜日まとめた「物語の哲学」第1章から第2章。
第4節「「起源」と「テロス」の不在」は、始まりも終わり(「テロス」は終わりのこと)もない口承言語の話。柳田國男が参加していたという連歌とか俳諧のような、場と共同体の文芸などがわかりやすいけど、ここに落語を持ってきたらどうだろうか。
第5節「解釈装置としての「物語文」」
この第1章は、柳田國男の文章を、同時代の思想家ベンヤミンと比較する、という構図になっている。確かにこの二人、近代化による物語の衰微に注目し、近代化の極限でもあるファシズムに対抗しようと、ベンヤミンは複製技術に、柳田國男は「常民」の文化に着目している。
第2章「物語と歴史のあいだ」
「話す」は当事者同士の行為遂行のレベル、「語る」は他者の働きかけを行うメタレベル。
発話行為は現在から未来へ、物語行為は過去から現在を構成する。物語行為は語る人と聞き手だけでなく、その共同体を取り込んで引用していく。こうした事態を野家氏は「間主観性」と読んでいるが、これは元々フッサールの言葉。間主観性は他者と大きく関わる概念…これも気になる…デカルトから始まる近代哲学が自己の哲学だとすれば、フッサールから始まる現代哲学は他者の哲学?
(2022 07/28)
積み重なる時間、発掘される時間
野家啓一「物語の哲学」第3章、第3節「歴史哲学テーゼ」(昨夜読んだ箇所)
「意味をなさない」とは何を意味するのか。
「オリジナル」と「コピー」の問題は、かなり深く考えてみる価値がある問題のように思う。大森荘蔵論文に当たってみるか。
クワインの全体性の中の配置の問題点。ある物語文は以前だったら整合性があって全体配置に取り入れられたが、次の時点では配置が変わり、「虚構」として撥ねられる、ということもあるのだろう。
そして科学もまた「歴史」であり「物語」である。というこの立場は科学哲学が一番の専門である野家氏のもう一つの持論なのだろう。
ライプニッツの「モナドロジー」から引いてきた「襞」を利用して展開させた文章。「襞」といえば、他にもベンヤミンやメルロ=ポンティなどもあり、現代思想家の何かが引っかかる表象。
虚構の言述(脱線有り)
「物語の哲学」続けて今日分。第2部第4章「物語の意味論のために」
前挙げられていたオースティンが言語行為論から排除した、虚構の言述。ラッセルが非存在者(「現在のフランス王」とか」への指示を消去しようと努めていた問題。これらがここでの中心問題。
上記のことから、以前のサールの議論で課題となっていた、話者と作者との分裂は自明のこと、というより虚構の言述の前提条件となることがわかる。
…とここに書いてきたけど、ちょっと一つ危険な?方向に踏み出してみよう。
前の「物語論 基礎と応用」(橋本陽介氏)で述べられていた、「過去形は過去のことを話している時に使われる、のではなく、過去形を使っているから過去のこととなる」という論法、これによって登場した文末の「た」、これらを踏まえてこうは言えないだろうか。
これら虚構の言述の装置使って話している限り、その内部の真理値は問われない…(責任逃れができる)…という図式が先にあって、そこから虚構という形式として、語りものやら昔話やら果ては小説なども誕生したのではなかろうか…
(断定避けとけばとりあえずテキトーなこと言い放題?…)
(物語が作る社会共同体…という幻想?より、余程あり得そうな(自分個人の見解)流れだと思うけれど…)
明日は正常位に戻る予定…
(2022 08/02)
クリプキの因果説から、背景としての物語
野家啓一「物語の哲学」。第4章後半。
身分け空間
言分け空間
テクスト空間
「世界」の分節化の過程。身分け空間は世界を共同体の思想・文化で分けていく。その次に、その文節された世界を言葉で捉え命名していく言分け空間。これにより、過去のこと遠く離れたことにも言及できる。
虚構の言述の特徴は「遮断」にあるという。
光源氏は「源氏物語」にまで遡及し、そこで「遮断」される。その「遮断」以後は共同体内において有意義な議論や真偽決定ができる。こうした空間が3つ目の「テクスト空間」。
ここの「背景」云々は、クーンの言うパラダイム辺りを思い浮かべればいい。
存在とか実在とかの定義の仕方によっては、光源氏やシャーロック・ホームズまでも「実在」となる時もあるし、犬とかも「それは便宜上「犬」という分類をしただけであって、その分類項自体は決して実在はしない」ということになる場合もある。そう考えるとそもそもの「身分け空間」から物語は始まっているとも言えそうだが。
まあとにかく、第4章読み終えた。
(2022 08/03)
記述説と因果説、海王星とバルカン
第5章「物語と科学のあいだ」。科学と物語のあいだの「壁」を、存在論を使って科学側から、意味論を使って物語側から崩していくという構成。前章の内容と被るところもあるが、こっちの方が虚構の指示名詞の「記述説」と「因果説」の違いがわかりやすい。
ここにもある通り、この章の道案内はクワイン。
さて、「記述説」と「因果説」
「記述説」(フレーゲ、ラッセル、サール)…固有名は「記述の束」(例:ハムレットはシェークスピア作の戯曲中の人物、デンマーク王子…)
「因果説」(クリプキ、パトナム)…固有名は「最初の命名儀式」から発する名前受け渡しの「因果連鎖」(例:ハムレットはシェークスピアによって命名)
ということで、そのような例として、ルヴェリエ(天文学者)の事績をあげている。天王星の軌道を観察して、それに影響を与えているであろう(当時)未知の惑星を想定して「海王星」と命名した。一方同じルヴェリエは、今度は水星の近日点移動を観察して、それに影響を与えているであろう惑星を想定して「バルカン」と命名した。前者は有効、後者は相対性理論によって無効。ただ後者が無効となったのは決して「遮断」があったわけではない。ニュートン力学の枠内では「バルカン」は妥当な考え。
(2022 08/04)
積み重なる時間、そして物語り文
第6章「時は流れない、それは積み重なる」
時間は通常は数直線のように川のように流れるものだとされる。物理学幾何学的には線分は無限に分割され、現在は点でしかなくなるが、人間的スケールにおいては現在は「幅がある」。
これがフッサールの議論になるが、野家氏によれば、知覚と想起を同一、或いは連続的変容にさせるために「時が流れる」のメタファーになってしまっている、という。
ではどう考えるのか。
透かし図柄が描かれたガラス板がうず高く積み重なっているイメージを、野家氏は挙げている。これも美しいが、自分はどちらかというとテトリスみたいなズレ含む方が近いのでは、とも思う。あとp272には「出来事」をどう切り出すかということが(デイヴィドソンの分析に触れるくらいで)軽く書いてある。ここも気になる箇所。
八分半前の太陽
さて、次の節では、「八分半前の太陽」と称して、太陽から地球まで光は八分半かかって到達するが、それではその光は現在のものなのか、それとも過去のものなのか、という「アポリア」が問われている。
まずは野家氏の師匠?でもあり、この本でも何度も出てきた大森荘蔵の議論。
要するに、今見えている世界の像は、全て過去が見えているという。
一方、それを「暴挙」という中島義道はこう言う。
これもどこに視点を置くか、の違いのような気がするのだけれど。野家氏は「いまが幅を持つという洞察は正しいが、百万年前をいまというのはインフレーションだ、と退ける。またp285の「二億年前の恐竜の化石が〈いま〉掘り出された」という文に関して、中島説では二億年間という〈いま〉になる、と野家氏は指摘しているのだが、そこまでのことは中島氏は言っていないと自分は思うがどうか(恐竜の化石はそこにあるのに…原著に当たっていないから不明だけれど)。
とにかく?この二つの説に対し、野家氏の立場はどうか。
ここで物語り文か…
(二つの別個の自分の時間的に離れた出来事を指示し、そのうちより初期の出来事を記述する文(アーサー・ダントー))
八分半前の太陽も同じ視覚であるだけで、これも物語り文だという。
(ナンダカナ)
再び問う。
…物語り文ではない文章はあるのだろうか…
(2022 08/05)
「物語の哲学」読了
第7章「物語り行為による世界制作」
第1節「物語り論の系譜」は仏独英米による物語り論の歴史。レヴィ=ストロースやバルト、(ドロイゼンを先駆者として)ガダマーやハーバーマス、そして英米ではダントーとギャリー。またこの時代には科学哲学においてクーン「科学革命の構造」が出てきている(ポパーって、人文・社会科学には自然科学の方法は適さず、別の方法論を用いるべし、とかいう立場ではなかったでしたっけ)。そしてその掉尾を飾るのはヘイドン・ホワイトの「メタヒストリー」(1973)と、ポール・リクールの「時間と物語」(1983-1985)。
第2節「物語り論の基本構図」
ここでは前章で軽く触れられた(かつ自分のこの記録(07/18)で「出来事の切り取りはどこかで触れられると思う」と書いた)デイヴィドソンの出来事理論をやや詳しく。でも「やや」であって、詳しくは柏端達也氏に丸投げ(笑)(「行為と出来事の存在論」勁草書房(1997))。
続いてアーレント(「過去と未来の間」みすず書房)から。
ディーネセンを例に挙げてここでは(心理学的な、喪の仕事的な)物語化行為が語られる。野家氏はそれをカント的、リクール的に「現実の構成」へと拡大していく。
第3節「物語りの内部と外部」
レイモン=ピカールが区分した、歴史の物語り論者の区分。
ハイ・ナラティヴィスト(ロラン・バルト、ヘイドン・ホワイト)…全ての文化は言語の内部にある。よって物語の外部は存在しない。
ロウ・ナラティヴィスト(ポール・リクール、デイヴィット・カー)…物語の中で生起することと世界の中で生起することの結びつきを主張。
そして野家氏もロウの方。
この物語りの外部という問題は、あとがきにある上村氏の批判と回答とも関係し、この本第3章のテーゼ「物語りえないことについては沈黙せねばならない」は、「物語りきれぬものは、物語り続けねばならない」に更新されている。
第4節「物語りと「人称科学」」
もう疲れた?ので一箇所だけ。ダントーの物語り文を現在の経験も含ませるように拡張することによって、科学哲学に物語り論を導入できる、と野家氏は考えている。
(読み終わったのは昨日)
(2022 08/06)
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