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「歴史を哲学する 七日間の集中講義」 野家啓一

岩波現代文庫  岩波書店


過去と電子の実在

 「歴史は科学か?」という問いは、明らかに歴史哲学の問いであると同時に、科学哲学の問いでもあるのです。また認識論の場面では、「過去の実在」をめぐるやっかいな問題は、たとえば「電子の実在」をめぐる問題と、原理的に同じ知覚不可能な対象の存在を論じるという点では基本的に同じ構造をもっています。
(p7)


大森荘蔵氏はその「過去の実在」に対し、「過去とは言語的に制作されたものである」と結論づけた。この辺が野家歴史哲学「物語り論」の中心かな。もう一箇所、「言語論的転回」について。デカルト以来の自分の意識と外界や他人の意識との認識をどう考えるのかという難問(結局は独我論や不可知論になってしまう)に対し

 この壁を突破するために、哲学の土俵を自己の「意識」から公共的な「言語」へ転換し、言語の論理的分析を通じて哲学的問題を解決(または解消)しようとしたのが言語論的転回の運動にほかなりません。
(p14)


そうだったんだ・・・
(2017 02/11)

二元論、一元論、そして…


第4章での自然科学流の実証主義が人文科学にも押し寄せて?来た頃のヴィッデンバントやディルタイの「実証主義」とは異なる規範を持つという「二元論」、そして「一元論」の最たるものであった20世紀の論理実証主義(ウィーン学団)、そこから第5章にかけてヘンペル→ポパー→ダントーという物語り論への分析哲学、科学哲学からの流れがわかりやすく書かれている。
ヘンペル(歴史学も含んだ包括的理論があるはず)→ポパー(歴史学は自然・社会科学のような反証可能性を持つ科学ではなく、多様性を元にした別の取り組みである)→ダントー(変化の項を挿入し、語用論を取り入れる)の変容。特に自分にはここにポパーが入ってきたのに驚いた。ポパーといえば「科学(反証可能性)を持たないものは学問ではない」みたいな考えだと誤解していたから。
(2017 02/12)

また来たポパー


野家氏の2冊の岩波現代文庫(もう1冊は「物語の哲学」)のうち「歴史を哲学する 七日間の集中講義」を読み終えた。
補講2の遅塚氏への「弁明」の中の、これまたポパーに関する箇所。ポパーの「反証可能性」は・・・

 ある言明(文、命題)が反証されるのは「事実」によってではなく、「他の言明」と突き合わされることによってなのです。
(p209)


これは歴史学などの人文分野だけでなく、「科学理論」全体がそうなのだという。「言語論的転回」は予想以上に広範囲。ポパー自身の言葉を引こう。

 客観的科学の経験的基礎は、したがって、科学についてなんら「絶対的」なものをもたない。科学は岩底に基礎をおくものではない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳え立っているのである。
(p211 「科学的発見の論理(上)」より)


・・・どうやらポパーを読み直す必要があるようだ(というか、そもそも読んでたっけ(笑))。
それはともかく、自分自身としてはここの遅塚氏のような「歴史的事実を救い出す?」という方向性より、真逆?の歴史と文学の差の解放という方向を期待してしまう(なぜか?)のだが。

 もし歴史書と小説のあいだに境界線があるとすれば、それはア・プリオリなものでも実体的なものでもなく、歴史的時空のなかに張り巡らされた言説のネットワークのなかに、「合理的受容可能性」をもって定位できるかどうかにかかっているのです。
(p224)


「種類の差」ではなく「程度の差」なのだと。自分が空想していた通りの表現が出てきてしまったが、もちろん歴史学としてはだからこそ史料、解釈とうの批判的眼差しの作業が重要になってくる。この辺例えばラミレスの「ただ影だけ」みたいな「歴史的事実」の言表を幾重にも入れながら虚構の糸を張るといった作品はどう解釈されるのかな、とずっと思っている。
(2017 02/15)

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