田中康弘 著『山怪』①
『山怪』という本が面白い。
『山怪』と書いて「さんかい」と読む。著者の田中康弘氏が創り出した言葉らしい。
『山怪』は現代の山での不思議な体験談を集めた本である。
狐火、神隠し、人魂、大蛇…といった体験談が紹介される。
似たような本は幾らでもありそうだが、『山怪』はちょっと違う。
2015年に発行された『山怪』は好評で、その後2017年に続編の『山怪 弍』が、2021年に同『参』、2023年には4冊目の『山怪 朱』が発行された。
4冊目がなぜ「朱」なのかは分からない。
著者自身が言うように、大半の「山怪」話には起承転結も無ければオチもない。教訓めいたものはさらに無い。体験者自身が、あれは何だったんだろうと困惑するような出来事である。その素朴さがかえって真実味を感じさせる。その一方で「山怪」話には、空想では思い付かないような具体的な描写があり、それがまた説得力とリアリティを持つ。
山怪は民話ではない。民話は完成形だ。「山怪」話(さんかいばなし)は民話になる前の、いわば民話の原石みたいなものだ。
しかし著者・田中康弘氏の目的は怪異現象の実在を主張することではない。
“怪談でメシを食ってる”人ではない。
だから読者を無理やり説得してくるような押し付けがましさがない。
田中康弘氏の本業はカメラマンである。長年にわたって、山で仕事をする人々すなわち林業に携わる人々や猟師たちを撮影、取材してきた。
特にマタギへの取材が多い。マタギとは、伝統的なしきたりに従って山で獲物を追う猟師のことだ。
以前の著者は取材の合間に不思議な体験談を聞いてもそれを仕事に結び付ける気持ちはなく、メモさえ取らなかったそうだ。ところが次第にその考え方が変わってきた。山怪話は、誰かが書き残さねば消えて無くなってしまうと気付いたのだ。
かつて山怪話は山々で生活する家庭で語り継がれてきた。囲炉裏の周りで祖父母が子供や孫たちに語り伝えてきた。
ところが少子高齢化と核家族化によってその機会は減少した。同居していても孫たちは部活やゲームで忙しい。
祖父母たちは「オラたちもテレビ見てっからなあ」と言う。
山間部に住んでいても、山に入ること自体が少なくなった。仕事場は里や町であり、通勤は自動車だ。山菜もスーパーで買える。
山怪話は今や絶滅危惧種なのだという。