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あの子

「あの子」というのはJ-POPにおいては、もはや用語として機能しており、17歳の頃に片想いをしていた同級生の異性のことを指す。

これは「多様性」のようなクソみたいな主張で定義が広がり同性を含んだりすることはせず、断固として17歳の少女のことを指すんだと僕は思っている。

17歳の頃の恋。という「誰にでもある登竜門」と「こんなこと考えてるのは自分だけなんじゃないか」みたいな特別感のバランス設定が絶妙だから

だからこそ、定義を広げたり狭めたりして言葉の意味を変えてしまうのはよくない。

もちろん僕にも「あの子」は存在していて、17歳から23歳まで、かなりガップリ四つな片想いをしていた記憶がある。



このあいだ数年振りに彼女のTwitterアカウントを見てみたら、彼女もすっかり政治垢に成り下がり

「特別な存在」から「Twitterにいる没個性」になってしまった。


なんというか。彼女が正式にJ-POP文脈においての「あの子」から、代名詞としての「彼女」になってしまったような気がしたので

「あの子」と「彼女」について日記につけてみようと思って、noteの下書きにいま文字を入力している。




すべての「あの子」は「思春期特有の都合の良さ」によって生まれると僕は思っている

僕が「あの子」を好きになった切っ掛けは、友人との「彼女欲しいよね」という会話

高校2年生の4月。クラス替えがあり、友達と「新しいクラスになったんだから狙うオンナでも作って楽しもうよ」みたいな会話をして、「じゃあ強いて言えば…」と「順位付けして選んだ」のが、あの子だった。

「順位付けして選んだ」ことをキチンと思い出したのは20歳くらいの頃で、僕は17歳からの3年間「あの子に一目惚れをした」と記憶違いを起こしていた。

その「都合の良さ」が、「打算的なアプローチ」を「17歳の片想い」に変えてしまったことで「あの子」は生まれたのだ。

あの子はサブカルが大好きで、浅野いにお、エヴァンゲリオン、モーモールルギャバン、相対性理論、峯田和伸みたいな「そういうの」を好んでいた

のちに、上記の中で浮いているエヴァンゲリオンは当時の彼氏の影響で好きになったことを知り、僕はエヴァンゲリオンを見れなくなってしまった。


17歳の僕はエヴァンゲリオンが見れなくなったり、

あの子の彼氏の苗字である「藤原」というワードを耳にすると発狂しそうになる自意識過剰な病気に掛かってしまい、日本史選択であるにも関わらず平安時代から続く藤原家のページを1枚も捲ることなく大学受験に挑むことになる。

これは余談だけど、あの子に首ったけ過ぎて大学に落ちてしまい、僕は2年間大学受験に挑むことになるんだけど。やはり2年目も藤原家のページを捲ることはなかった。

あの子と教室でした会話をICレコーダーに録音して(ICレコーダーには当時のお小遣い3ヶ月分をブチ込んだ)、友達がいない予備校のトイレでソレを聞きながら大福を食べたり

あの子の彼氏の名前を付けたパワプロクンに過剰なトレーニングを課して骨折させまくったり

ミュージシャンが歌う「あの子」にあの子を重ねて感動したり

僕の「あの子」が銀杏BOYZの援助交際みたいな「あの子」だったらどうしようと夜中に不安になって翌日それとなく聞いてみたら思惑がバレて自己嫌悪で頭がおかしくなったり

恥ずかしながら、おおよそ考えうる「17歳片想いの奇行」を17歳から23歳までの5年間掛けて大まかには通ってきたつもりである。


なぜ「あの子」に執着してしまうのだろうか。なぜ「あの子」は20歳になっても30歳になっても40歳になってもいつまでも特別なのだろうか。「あの子」の結婚式が成人の儀式として作用する理由は一体なんなんだろうか

おそらく、片想い市場においての「掛け値なしの気持ち」を注ぐ最初で最後の機会だからなんじゃないかと僕は思っている

合コンや街コンやマッチングアプリや会社の同僚や同窓会で出会った同級生や

どんな出会い方をしたとしても、20歳からの片想いは打算的にならざるを得ない

打算以上の気持ちを抱こうと思うより早く、その片想いが実る兆しがあるのかないのか判断ができてしまうから。

成就しなさそうだな、と思ったら身を引くことができるから。

だから、「この人じゃないとダメなんだ!あの子は特別なんだ!」なんて勘違いをするより早く、身を引くか、片想いが成就するか「結果が出て」しまう

もっというと、片想いというものをしなくなる

成就するかどうか分からない恋愛に対して「片想い」という精神的な負荷を掛けるようなエネルギーの無駄遣いをしなくなる。「付き合えない人」というタグを付けて、彼女候補という検索に引っ掛からないように管理してしまう

そうやって「折り合いをつける」ことなく「この人は特別なんだ」なんて勘違いをしてしまっても許される年齢制限のようなものが17歳なのだろう。クラスメイトという制度もまた、折り合いをつける邪魔になるのかもしれない。だからこそ「あの子」は17歳の僕の目の前に現れた。

僕は、もう、いい大人になった。でも、どんなに愛する女性ができても、結婚して子供を産んで育て上げて老後を共に過ごすような女性が現れても

それはあくまでも「相手が自分に対して気持ちを向けてくれる」という保証があるから気持ちを向けられるという関係性であって

振り向いてもらえなくても愛情を向け続けた「あの子」と僕の関係性の代替にはなり得ない

「あの子」にはそういった「特別」がある。これは僕だけでなく、誰にとってもそうなのだろう

僕は長い間、それを「僕だけの特別な感情」だと思っていたが、そんなこともないんだなと。そう「気付く」ことが大人になるということなら

アラサーにもなってこんなことをいうのは非常にみっともないが、大人になるなんて下らなくて、エネルギーを節約してるだけなんだなと。そんなことも思う

あの子の呪縛から逃れた先の世界には、なにもなかった

気持ちを向ける先も、気持ちを向けられる保証も、気持ちを向ける体力も。なにもなかった

ただ、気持ちを向けられたいだとか、セックスがしたいだとか

「あの子」に浸かった時間を取り戻したいとか。そういうタスクのようなものが山積みになっていただけだった

今あるこのタスクを片付けることができれば、

周りの連中が声高に叫ぶ「愛する」だとか「守りたいオンナ」だとか「互いを尊重し合う」だとか。そういう「この先50年生きていくことができる勘違い」に辿り着くことが出来るのだろうか

それは、いつまでに済ませなければいけない勘違いなんだろう

「あの子」の勘違いを17歳までに済ませなければならなかったように、「大人になるための勘違い」にも年齢制限のようなものがある気がする

その年齢制限が、刻々と近付いているような気がして

僕は本当に焦っている

僕はセックスがしたい。僕はセックスがしたい。

僕は、セックスがしたい。

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