20年ぶりに書いている
安心に守られ孤独を抱きしめる。私にとっての書くということについて。
去年突如、文章を書きはじめ、しだいにその時間が大切になっている。ここ20年、SNSに投稿するくらいで何も書いていなかったのに、なぜ、急に書き始めたのかと思うと中学生の頃のことを思いだした。
中学3年生のとき、作家の評論を書くという宿題がでた。当時小説は読まなかったので、母が薦めた数人の作家から適当に坂口安吾に決めた。最初は受け身だったのだが、思いがけずこの宿題に夢中になった。
朝、家を出たらマクドナルドに向いポテトを注文する。大学ノートを広げる。小説から気になる一節を抜き出して書き写し、横に解説を加える。図書館で探してきた評論を紹介したら、意見を書き加える。書いているうちに色んな解釈を思いつき、通学路でも言葉があふれてくるから、マックに駆け込んだ。授業をさぼったって寂しくもないし罪悪感もなかった。ひとしきり書いて気が済んだら学校に行った。
当時の気持ちを知りたくて、先日、坂口安吾の小説を20年ぶりに読んでみた。
戦争の末期、人が「焼き鳥のように」あちらこちらで死んでいる、そんな時代背景。人間の残酷さや浅ましさ、肉体の欲望の虚しさ、女性という性。深い絶望と孤独。死と隣り合わせで生きていくこと。希望はない、ただ惰性に似た肯定があるだけ。
暗く深いテーマをもった作品を15才の私がなぜ夢中になり、どう論じていたのかと驚いた。
当時は地下鉄オウムサリン事件や神戸連続児童殺傷事件がニュースを騒がせていた。根底から揺らぐ不穏な世紀末。そんな空気感があった。
現実に起こる事件は、生きる実感を持たない人が他人を殺して自分の実感を得る、という点で、坂口安吾の『桜の森の満開の下』の山賊に似ていた。
そして、女性は野蛮で欲望だらけで残酷で、同時に無垢で神聖である。そんな描き方も思いあたるところがあった。
とにもかくにも、15才の私にはびっくりするくらい深い問題意識があり語りたいことがあったのだ。しかし友達にも先生にも家族にも語れなかった。生きるとか、死ぬとか、人間の残酷さとか、孤独とか、性とか。語りたいとも思ってなかった。明るくないし絶対に伝わらないから。
現実では深い部分を共有することを諦めて、そつなく人間関係が流れるように祈っていた。けれど、やっぱり言いたいこともあって、唯一小説家の世界が鏡となって引き出してくれた。
ポテトの油じみが各ページについた大学ノートには文字がびっしりと並び、5冊におよんだ。それを提出したら先生は大変褒めてくれたが、あれだけの熱量で書いていたのだから当然だと思った。
書評はジャズのセッションに似ていた。作家と私と評論家とのセッション。その充実感は大層なものだった。
しかし、これ以上書いてはいけない、と思った。
あまりに一人で楽しいので怖かった。作家と評論家の言葉があれば満ち足りた。現実の他人はいらなかった。
そして、書くことを熱心にやって、職業にしたいとか認められたい、とか思ってしまえば、気が狂う予感がした。
なにより、言葉が次々と浮かんできて止まらない。頭がフル回転して体とちぐはぐになるような、危ない感覚がした。書いている間ずっと小説の世界にいて、その分目の前のことに関心が薄れた。今は違う、と直感して楽しかった感覚は封印した。その後真剣に書くことはなかった。
そうして、今また、文章を書きたくなった。
書きながら、日々見逃してしまう違和感や感動に立ち返り、言葉にしながらじっくり味わう。日常では慌ただしく流してしまいがちな、自分の感じ方に向き合える。書くという手段でしか触れられない領域が確かにある。
そして今、頭と体のバランスが取れてきた。日々の生活の重み、目の前の仕事、回りの人間関係。心地よいことばかりではないけど、体があって現実の中で生きていく自分に確からしさを感じている。今の環境に安心できたからこそ、書くという扉を再び開いたのだと思う。
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