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真理と思想の区別

 真理などには到達する事もできないだろうという事はもちろんあるのだが、その上で厳密な線引きはできないまでも、仮に「真理」とするものがあるとして、その真理を前提とした個人の「思想」というものが展開されているという事を明確に認識するべきであると考える。
 個人の発言全てを「思想」であるとする捉え方も一つの思想としてありうるのだが、それではあまりに独善的な考えに陥り他の考えを許容しないいわゆる頑固な人間を生み出しかねない。
 真理には到達することができないというのならば追求してゆく姿勢そのものが真理だとも言える。

 例えるならば、私の考える真理とは、「他人のものを奪ってはいけない」ということの一言に尽きると思うわけである。これに対して他人の命など言うまでもないが、公に金銭を奪う集団や、時間を奪う行為に対してあまりに寛容である事を危惧しなければならないのではなかろうか。
そのことの延長において、基本的に「無駄な事をしてはいけない」というものも考えられる。無駄なことは多くの場合他人の時間を奪う結果となるからである。人間関係を円滑にする為の雑談は無駄ではないが、無意味な会話が世の中を覆い尽くしてはいないだろうか。

 世の中にかつてあった同性愛を認めない風潮というものは、特に人口が少ない段階において性というものを子供を創る為のものと捉える前提で、同性愛自体が無駄なものであるという思想の上であったと解釈できる。それはあくまで思想であり、恋愛自体は必ずしも子供が目的だけではない。その上では、同性愛を認めてはいけない風潮は他人のものを奪っていたと言える。同性愛を認める事が同性愛の強要ではない限り、認めるべきである事が真理と捉えられる。

 物事は常に程度問題であり極端に白黒を付けられない問題がほとんどである。本来、柔軟な対応こそが求められるものを無理に決定する事で生じる歪みについてはきちんと考慮するべきであるのだが、そういう意味においてもある程度の柔軟性と含みを持たせた上で、「真理」と個人の「思想」というものを分けて考える事ができれば、世の中の無用な対立や歪みが少し減るだろう。
 
 学問などはあくまで広く公にされているだけの「思想」に他ならないのである。そういう意味でも、学問と宗教の境目などないのかもしれない。無意識に真理と勘違いした歪んだ思想というものが溢れている可能性をきちんと憂慮したい。
 そして、国家の運営など多くの人々に影響を与えるものなどは、真理に近づくことを追求せねばならないのではないだろうか。理想的には憲法や法などというルールが「真理」であり、その中で生きる人々の「思想」が真理を犯さない範囲の中で展開されてゆく事ができれば良い。

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