フクプー
私的な指摘
人は選択の連続で生きるわけであるが、その時点での自分に居心地の良い選択を無意識に取るということ。 他人のせいにしてはいけないとか、引き寄せの法則とか、色々な言い方もされているけれど、自らの身の回りに起こることは、全て自分が引き起こしているということ。 居心地が良い選択というのは、自分が気がついて居ないものも含めて、今の自分の感情をベースに選択しうる、いわば自分という人間にふさわしい状態になりうる選択を取るということ。 それが例え自らが不幸になる選択であろうとも。 自分とい
高い関心と動かぬ精神力
評価の数で評価するならば、評価とはどこにあるのでしょう。
テクノロジーもどきが、社会を複雑化させることによって時間もお金も奪っている。 社会がすでに衰退の方向に傾いていることに気が付いている人は少ないのだろうか。
お金を稼げるならば何をしても良いのでしょうか。 売っているものならば全て購入しても良いものなのでしょうか。 本当の健康を考えることは、結果としてお金をうごかすのでしょうか。 本当に「健康食品」ですか。 お金は全ての価値を決定できるのでしょうか。 何かを考える上で、お金が基準になっていませんでしょうか。 お金になるなら、命を粗末に扱っても良いのですか。 お金で人の寿命も売られるのですか。 不安を煽って行うビジネスは、世界をどう動かしていますか。 お金を動かして
「辞められるもの」でない限り「惰性で続ける」という概念は存在しない。人生をいつでも終わりにできるという漠然とした勘違いこそが、「惰性で続ける人生」という勘違いを生む。 死を思うこと、リアリティのある死を定義することこそが途中で止めることのできない生と言うものを実感させた時、「惰性で生きる」と言う事の不可能性を自覚させる。そして人生を死をもって途中で投げ出そうとも、自らの苦悩から逃げ出す事は根本から不可能である可能性が高い。 この意味で言えば、惰性で続く社会を生きるとい
カメラ製品の発展により誰しも写真が「綺麗に」撮れるようになった事により、写真そのものの価値は相対的にも絶対的にも低下していると言える。 技術というものは手段でしかなく、手段を用いて生み出される「表現」が本来の写真の価値であるとするならば、製品の発展により手段としての技術の向上の手間が省ける分、表現に重きを置いた作品性の高い写真が増えてしかるべきである。 しかしながら、作品となりうるだけの深い思慮を発揮するほどに写真というものに親しむ人々は、カメラ製品の技術向上などに対
高慢さというものは、他を侮り自らの優位性を確保しようという精神である。 多くの場合、他人の高慢さを指摘するという行為自体が高慢な己の現れであるともいえる。 他人の可能性を奪う権利などないのであるから。 自己に対する過大評価というものがあるとすれば、それを決定しているのは高慢な他人の意思である。 しかしながら、他人が指摘する余地などない己自身の事であるからこそ、常に自己の高慢さには注意を払うべきである。
ケネディ暗殺以降まことしやかに囁かれる数多の陰謀論の言いたいこととは、社会システムの歪みの原因は特定の個人や集団の陰謀により生み出されたものであるということ。確かに今の社会において理不尽な不幸を生み出す構造が多見されることは事実であり、またおそらく陰謀自体もいくつかあるのであろう。事実を正しく認識することでしか問題を解決する手段を講じることは不可能であるから、社会構造の根本問題が陰謀により画策されたものであるのであれば、陰謀論を読み解かずに世界平和は訪れないとも言えるわけで
大抵の場合は理解したということ自体が誤解であるということと同じく、常識に支配されている人間は「常識」自体を認識していない。 当たり前に染み付いた思考のパターンを、あえて分析することの価値を認める者ならば、常識によらずに考えることができる。しかしながら一般的にはかえって自らの思考パターンを分析して考え直すことなど不利益しか生じさせないものであると考えているからだ。 専門家や権威などといった、自らでは遠く及ばないほどに努力や思考や勉学を積み上げてきた人たちの話を聞くことの
インスタントな成功理論を求める人々は、その成功から何を得たいのだろうか。
前提を埋めぬ議論は形だけで本質的には何も生み出さない。 理解したという高慢さが招く誤解は、前提を埋めない議論を作り出す。 本当の理解とは、「理解などしてはいないと、耳を傾き続けること」であり、誤解と自覚できる誤解など最初から存在しない。 理解したということ自体が既に誤解であり、得られたものは個人の見解にしか過ぎない。 人は全てにおいて同じ経験を共有することなどできないのだから。 相手の言葉を本当に理解できることがあるとすれば、その言葉が人類共通の真理である場合だけだ
物事をきちんと判断し決定することと頑固になり判断材料を限定することには大きな違いがある。つまり優柔不断を解決する術は、頑固になることでは決してないのである。 昨今の思考停止の世の中においては優柔不断と言うものはとりあえず良くはないものと扱われることが多いので、自分自身の優柔不断をコンプレックスにしている人間は多い。しかしながら優柔不断というものは自分の立場を頑なに堅持することをよしとしない、もしくは物事をきちんと考え続けることができると言うことであって、決して悪いなど
思想は個人のものであり基本的に自由であるべきだ。しかしながら同時に、思想自体が真理に反さない物であるべきでもある。真理とは常に正しさを追求しながらバランスを取ることであるとするならば、思想が歪んでいないかを常に検証し続けるということである。 そういう意味でも、個人の人間自体完成されたものではないという意味においても、完全な思想などというものは存在しないという事を、他人に対してはよく理解しているのにもかかわらず、自分自身に対して問えないというのが人間の傾向である。 日
真理などには到達する事もできないだろうという事はもちろんあるのだが、その上で厳密な線引きはできないまでも、仮に「真理」とするものがあるとして、その真理を前提とした個人の「思想」というものが展開されているという事を明確に認識するべきであると考える。 個人の発言全てを「思想」であるとする捉え方も一つの思想としてありうるのだが、それではあまりに独善的な考えに陥り他の考えを許容しないいわゆる頑固な人間を生み出しかねない。 真理には到達することができないというのならば追求してゆく